お花見・2
アパートから十五分ほど歩いて神社へと赴き、さらに裏の坂道を汗水垂らしてふうふう言いながら登ること、約十分。
夏祭りで花火を見たあの場所に、カイジと少年は辿り着いていた。
以前ここへ来たときは、ため息の漏れるような夜景が目の前に広がっていたから、昼間の景色にもカイジは多少なりと期待していたのだが、実際に見てみると、その眺望ははなんというか、平凡だった。
もちろん、ジオラマのような街の景色が遥か遠くの方まで見渡せるのは爽快だし、うっすらと霞雲のたなびく春空も、胸のすくような美しさだ。
が、しかし。
「……桜なんて、どこにも咲いてねえじゃねぇか」
手の甲で額の汗を拭いながらカイジがそう漏らしたとおり、今、この場所から見えるものといえば、模型のような街並みと、青い空だけである。
周りを見渡しても、桜はおろか、野花のひとつも咲いていない風景は、どことなくうら寂しい。
肩透かしを食ったような気持ちになるカイジを余所に、少年は高い鼻をすんすんと鳴らし、空気の匂いを嗅いでいる。
ややあって、大きな白い狐耳が、前向きにぴんと立った。
「……あれだ」
少年はスッと腕を持ち上げ、ある一点をまっすぐに指さす。
白い指が指し示す先を見ると、そこにはなんの変哲も無い、一本の樹が立っていた。
周りの樹々に紛れるようにして佇んでいるそれは、細い幹が真っ黒で、枯れかけた枝が『おずおずと』といった風情で、空に向かって控えめに手を伸ばしている。
「あれだ、って、お前……」
唖然とするカイジの声を無視し、少年はふさふさしたしっぽを左右に揺らしながら、樹の方へ歩いていく。
相変わらずのマイペースぶりにため息をつきつつ、カイジは渋々、その後に続いた。
ところどころ剥がれかけている、黒い樹皮。
しなやかさを失い、触れればたちどころにバラバラと崩れ落ちてしまいそうなほど、乾燥した枝たち。
傍に寄って見ると、この老人じみた樹の侘しさが、いっそう際立つようにカイジには感じられた。
カイジは少年が神さまの力を使って、枯れ木に花でも咲かせるのかと期待していたが、少年は樹の根本でカイジを振り返り、
「ここで荷物、広げて」
とだけ命じる。
「なぁ。桜なんて、どこに咲いてるんだよ? ……つうかこの樹、なんか枯れかけてねぇ?」
不審げに言いながらも、カイジは言われたとおりに荷物を広げる。
地面の平らな場所を探して赤い風呂敷包みを解くと、中にはチーかまやナッツ、あたりめなどのつまみと、ビールが数本、保冷剤とともに入れられていた。
とりあえず、風呂敷をレジャーシート代わりにそれらを並べておき、今度は青い風呂敷包みに手をかける。
「!! お前、これっ……」
中から顔を出したのは、日本酒の一升瓶。
出雲への出張から帰って来た際、少年が手土産として提げてきた酒だった。
少年は同じ酒を二本買ってきており、そのうちの一本はとっくの昔にカイジが飲みきってしまったから、ここにあるのは残りの一本ということになる。
少年はカイジの手中から酒瓶を奪い取ると、鋭い目でカイジを睨めつける。
「あんたって、つくづく失礼な人間だよな。咲いてねえだの枯れてるだのと喚く前に、そのでかい目で、もっとしっかり探してみたらどうなんだ」
冷ややかな声で一蹴され、カイジはムッとしつつも、眉を寄せて桜の樹を見上げる。
「なに言ってるんだよ。花なんて、どこにも……」
ブツブツ言いながら目を凝らし、カイジは
「あ」
と呟いた。
ごく低いところから突き出ている枝の先、白い花がたったひとつだけ、なにかちいさな生き物が必死にしがみついているような頼りない感じで、風に揺れている。
「やっと見つけたか。本当に節穴だな」
ぽかんと口を開けてその花を見つめるカイジを、少年が鼻で嘲笑う。
青空をバックに揺れる花は、一度目を離すと見失ってしまいそうなくらい小さく、カイジは視線を逸らすまいと食い入るように見つめながら、少年に向かって言った。
「た、たしかに、咲いてはいるけど……でも、たったこれだけで花見って、いくらなんでもーー」
言葉の途中で、よく耳馴染みのある鈍い音が耳に飛び込んできて、カイジはハッとして口を噤む。
慌てて目線を戻すと、たった今抜いた一升瓶の蓋を、少年が地面に投げ捨てているところだった。
「お前、いったいなにを……」
嫌な予感にハラハラするカイジを無視し、少年はつかつかと木の傍に歩み寄る。
そして、地を掴むように張っている太い根本に向かって酒瓶を傾け、中の銘酒を躊躇いなくどぼどぼと注いだ。
「あーーーーっ!?」
ようやく見つけた桜の花のことも忘れ、慌ててカイジは少年を止めようとする。
が、少年は獣特有の俊敏さで難なくカイジを躱しながら、枯れた木に惜しみなく酒を吸わせ続けた。
「お前っ、なんてことをっ……!! 気でも狂ったのかっ……!?」
裏返った声で少年を罵り、カイジは頭を抱えた。
少年が持って帰ってきたこの酒を、カイジは密かに、とても気に入っていたのだ。
飲み口がとてもきめ細やかで香り高く、後味はスッキリ、かつ奥深い。
素寒貧のカイジでさえも、ひとくちで高級酒だとわかるようなその酒を、少年はあろうことか、一輪しか花を咲かせないこの樹に滔々と注いでいるのだ。
信じられない思いで少年を見遣るカイジの耳に、腹立たしいほど静かな声が届く。
「言ってあったはずだぜ。こっちはあんたへの土産じゃないと」
カイジはぐっと言葉に詰まる。
確かに、カイジは少年に再三忠告されていた。
『一本は好きに呑んで構わないが、もう一本はあんたへの土産じゃないんだから、開けるなよ』と。
少年はもともと桜に吸わせるつもりで、出雲からこの酒を持って帰ってきたのだろう。カイジの分は、そのついでだったのだ。
「それは、そうだけどっ……! でも、なんてもったいない……っ」
諦めがつかないような顔で唇を噛み、呪しげな視線を送るカイジの目の前で、逆さに向けられた瓶は勢いよく酒を吐き出し続け、やがてカラになった。
瓶の口から、ぽたり、ぽたりと落ちる雫の、最後の一滴まで樹の根に注ぎ、少年は瓶を地面に置く。
とてもなにか言いたげな顔のカイジをちらりと横目で見て、少年はすぐに樹へと視線を戻した。
「……今年で、最後なんだ」
「へっ?」
唐突な呟きに、カイジはぱちぱちと目を瞬く。
眩しさに切れ長の目を眇めながら、少年は枯れた枝を見上げ、続けた。
「この樹。寿命が近いから、来年はおそらく咲けない。だから最期くらい、思いきり咲いて逝きたいと、夏祭りのとき、オレにそう願いをかけたのさ」
少年の言葉に、カイジは軽く目を見開く。
あの夏祭りの夜、少年に願いをかけたのは、なにも人間だけに限った話ではなかったのだ。
「……だから、『花見』ってわけか」
連勤明けで眠い中、こんなところへ連れ出された理由が、ようやくカイジにも理解できてきた。
少年はカイジの言葉に頷き、
「せっかく、有終の美を飾ろうとしてるんだ。見届けてやるのがオレだけ、ってのも、味気ない話だろ」
そう言って、ゆるく口許を撓めてみせる。
桜の寿命の話をする少年の表情が、以前のように、深く沈み込んでいる様子ではなかったので、カイジはホッとした。
寿命を乗り越え、好きな人間とずっと一緒にいられる方法を知ったからだろう。
桜を眺める少年の穏やかな瞳を見るにつけ、過去から自分を呼び寄せてまでそれを教えてくれた未来の少年に、カイジは感謝したいような気持ちになった。
それと同時に、これから死にゆこうとする桜の意思を尊重するような台詞が、少年の口から出たことがとても意外で、ほんのりと嬉しくもある。
まるで子供の成長を喜ぶ父親みたいな自分の心情に、カイジはひとり、苦笑した。
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