憂さ晴らし ただの日常話


 アカギが雀荘から出て繁華街を歩いていると、偶然、今から訪ねようとしていたアパートの家主が、向こう側から歩いてくるのが見えた。
「カイジさん」
 声をかけると、カイジは革ジャンのポケットに手を突っ込んだまま、チラリとアカギを見て立ち止まる。

 ……どうやら、機嫌があまりよろしくないらしい。
 丸まった背中とシケた面構えを見て、アカギはそれを瞬時に察知する。

 だからといって、いつもと対応を変えるわけでもなく、アカギはいつも通りの挨拶を平らな声で口にした。
「久しぶり。今日、世話になってもいい?」
 すると、むっつりと押し黙ったまま、カイジは軽く顎を引いて頷いた。

 ふて腐れたような、この感じ。
 さてはギャンブルで派手に負けたなと、もはやお決まりのパターンと化している不機嫌の理由に当たりをつけて、アカギはカイジをじっと見つめる。

 泣いてはいないようだが、終末が訪れたような顔をしている。
 固く引き結ばれたままの唇に、今、不意打ちでキスしてやったらいったいどんな反応が返ってくるのだろう、などと不穏なことをアカギがぼんやり考えていると、ふいにその唇が薄く開かれた。

「……帰る前に、寄るとこがある」
「寄るとこ?」
 そう言えばこの人、家とは逆方向に向かって歩いてたな、と思いながら、アカギが問い返すと、カイジは重々しい口振りで告げた。
「ムシャクシャしてんだ。つき合えよ。憂さ晴らしに行くから」
「憂さ晴らし?」
 オウム返しの問いかけには答えず、カイジはさっさと歩き出す。
 内心首を傾げつつ、アカギも黙ってそのあとについていった。






 キン、という小気味良い音と、ときどき、ボスッ、という鈍い音。
「っのや、ろっ……!!」
 飛んでくる時速100キロの球に向かって、思い切りバットを振り抜くカイジの後ろ姿を、緑色のネット越しにアカギは眺めていた。

 深夜のバッティングセンターには、疎らではあるが他にも人気があり、隣のボックスからも規則的な金属音が響いている。

 カイジがこの古ぼけたバッティングセンターに足を向けたことを、アカギはなんとなく意外に思った。
 なにせ、日々の鬱憤を外車のエンブレム盗難という違法行為で晴らしていたようなダメ男なのだ。
 だが、値段が安く2プレイで無料券が貰えるという店側の気前の良さもあってか、カイジはそこそこの頻度でここに『憂さ晴らし』に来ているらしい。

 ボックスに立つカイジの慣れた様子を見れば、それが嘘じゃないことはアカギにもすぐにわかった。
 カイジは上着を脱いで半袖のシャツ一枚になり、長い髪を無造作に束ねるという気合いの入りようで、さっきまで猫のように丸まっていた背筋をピンと伸ばし、バットを構えるフォームは素人目にもそこそこ様になっているように見える。

 変化球のない、直球のみのコース。
 一球一球にちゃんと集中し、タイミングをきちんと合わせてスイングしている。

「ッおら……っ!!」
 ときおり、強振に合わせて怒りに任せた声が混ざる。
 百発百中とまではいかないものの、九割型、カイジのバットは的確にボールを捉え、打たれた球は胸のすくような音とともに、水銀灯で照らされた真っ黒な夜空へと吸い込まれていき、そこに張られたネットに当たって落ちる。

 ボックスに入る前のしょぼくれた様子とはまるで別人のような背中を、アカギは興味深く眺めていた。
 カイジとここへ来るのは初めてだったが、新たな一面を垣間見た気がした。


 ワンプレイ、二十球ほど打ち終わると、カイジは打ち足りないのかポケットからコインを取り出そうとして、ふとアカギを振り返る。
「……お前もやる?」
 単調な『憂さ晴らし』をずっと眺めさせているということに気兼ねしたのか、軽く息を乱しながら問うてくる。
 アカギは首を横に振ろうとしたが、やけにスッキリしたようなカイジの顔を見て、咄嗟に「うん」と頷いていた。

 カイジほどではないにしろ、鬱憤が溜まっているのはアカギも同様で、生ぬるい麻雀を打った『憂さ晴らし』を、たまには喧嘩以外の方法でやってみるのも悪くないかと思えたのだ。



 渡された金属バットのグリップは、微かに汗で湿り、カイジの体温が残っていた。
 幾度かスイングして感触を確かめていると、
「お前、バットって握ったことあんの?」
 後ろに立つカイジに声をかけられ、「あるよ」とアカギは答える。
「マジで? ……武器として、じゃなくてだぞ?」
「……」
 疑わしげな声を無視し、アカギはカイジに教えてもらったとおり、投入口にコインを入れて打席に立った。

 独特の機械音とともに、ピッチングマシンからボールが放たれる。
 さっきカイジが打つのを散々見ていたから、球の速さには慣れているし、スイングのイメージも掴めている。

 初球、肩慣らしに軽く振り抜けば、バットはボールを捉えて軽快に弾き飛ばした。
 鼓膜を震わせる金属音とともに放物線を描いたボールは、ネットの左側、低い位置に当たって落ちる。

 バットを通して手に伝わる、じんと痺れるような感覚。
 それが消え去らないうちに次の球が発射され、アカギはふたたびバットを振るう。

 今度はもっと高く、もっと遠くへーー。

 それだけを考えてひたすら体を動かしていると、不思議なくらい頭の中がスッキリと冴え、体の底に淀んでいた澱さえも、一時的にではあるが、スイングに合わせて少しずつ振り払われていくような気がした。

 一球ごとに確実に精度を増していくアカギのスイングを、カイジは後ろでタバコをふかしながら眺めているようで、よく馴染んだマルボロの匂いが、風に乗ってときおりアカギの鼻先を掠めた。



 すべての球を打ち終わり、軽く息をつくアカギに、カイジが声をかける。
「なかなかやるな。……まだまだ、オレの方がうまいけど」
 得意げにニヤリと笑うカイジの言うとおり、後半ようやくコツを掴んで調子の出てきたアカギよりも、一日の長があるカイジの方が断然うまくボールを飛ばしていた。
「どうも。……あんたは、まだ打つんでしょ?」
 淡々と言ってボックスを出ようとするアカギを見て、カイジはふと、なにかを思いついたような顔になる。
「……なぁ。勝負しねえか?」
 不敵につり上げられた口角を見て、アカギはぴたりと動きを止めた。
「オレとお前、ワンプレイずつ。わかりやすく、向こうのネットに当てられた回数で勝敗を決める、ってのはどうだ?」
 リピーターであるカイジの方が、圧倒的に有利な勝負であることは明白。
 アカギのプレイを後ろで見ていて、ぜったいに自分が勝てると確信したからこそ、こんな勝負をふっかけてきたに違いない。

 悪い笑みに顔を歪めるカイジを横目で見て、アカギはふっと唇を撓めた。
「……いいですよ」

 ボックスから出て、アカギはカイジと入れ替わる。
 やる気十分といった様子で、空気を唸らせて鼻息荒く素振りを繰り返すカイジの姿を、アカギは黙って眺めていた。
 十分体が温まったところで、いよいよカイジはポケットからコインを取り出し、投入口に入れる。

 打席に戻ってバットを構え、カイジの背中が集中にぴんと張り詰めたところで、アカギはやにわに口を開き、カイジにも聞こえるような声でハッキリと言った。

「ただし……あんたが自信満々にふっかけてきた勝負だ。何を『賭ける』ことになっても、文句はないな」
「え……? ッうわっ!!」

 不穏な呟きに思わずアカギを振り返った瞬間、ボールが飛んできてカイジは慌ててスイングする。
 しかしバットは大きく空振り、ボスッ、という間抜けな音を立てて球はアカギの前のネットにぶつかった。

 コロコロと転がっていくボールを目で追うこともせず、戦慄の表情を浮かべて自分を見返してくるカイジに、アカギは悪辣な笑みを浮かべて言った。
「ほら、ちゃんと集中しなよ。怪我するぜ?」

 ゴクリと唾を飲む音が、アカギの耳にもハッキリと届く。
 なにか言いたげにしながらも、すでにコインを入れてしまった手前、次の球に備えないわけにはいかず、カイジは一度、振り子のようにバットを大きく揺らしてから、気合を入れて構え直す。

 自分の一言で、ぐっと緊張感を増した背中を眺めながら、アカギは密かに、喉を鳴らして笑うのだった。




 






 バットを構えるとき、体のどこにも余計な力は入れない。

 投射機のアームのゆったりとした動きと、機械の音。
 それら意識を集中させ、ただひたすら、タイミングをはかってバットを振るう。

 バットの芯が、小さなボールを捉える確かな手応え。
 それを感じつつ的確な力を込めて打てば、高い音とともに白球は気持ちよく伸びてゆく。



 一球打ち返すごとに、アカギの後ろからは悲鳴のような、呻き声のような声が上がっていた。
「ぐっ……!! くっ……!!」
 十球を越えたあたりから、さらに歯軋りの音まで混ざり始めたが、十五球目になるとそれが嘘のように、しんと静まり返ってしまった。

 プレッシャーで何本か打ち損じてしまったカイジに対し、アカギはのびのびとボールを打ち返し、今のところすべての打球をネットに当てていた。
 この時点ですでにアカギの勝ちは確定していて、打ちひしがれたような視線が背中に注がれるのを感じながら、アカギは最後の最後まで手を抜かず、キッチリと球をネットに打ち込んでいく。
 ボールを打つたび、コロコロと変化していくカイジの声と気配に、アカギの酷薄そうな薄い唇が笑みをかたどっていることなど、カイジ本人は知るよしもなかった。

 そして、ついに最後の一球。
 ストレート限定とはいえ、多少なりと投球にバラつきのあるピッチングマシンも、ここぞとばかりに空気を読んだ。
 ド真ん中高め、動体視力のいい者には止まって見えるようなその球が飛び込んできた瞬間、アカギは軸足に体重を乗せ、空気を裂いてフルスイングする。

 カキン、とひときわ小気味の良い音がこだまし、高く打ち上がった白球は吸い寄せられるようにネット上部につけられている丸い的のど真ん中に命中し、
「……あ〜〜〜〜ッ!?」
 ホームランを讃える間抜けなファンファーレと、それに輪をかけて間抜けな悲鳴に見送られ、ふたりの勝負はアカギの圧勝という形で幕を下ろしたのだった。





「お前……さてはさっき、手ェ抜いてただろっ……!!」
 青ざめた顔のカイジに詰め寄られ、アカギはバットを首の後ろに回して担ぐように持ちながら、静かに笑った。
「べつに、そういうわけじゃないけど」

 確かに、カイジとアカギの経験の差は大きかった。
 しかし、アカギは大抵のものごとには、常人の何倍もの早さで「慣れる」ことができる。
 加えて、アカギはコツというものを掴むのが神懸かり的に上手いのだ。そうなってくると、動体視力も筋力も体幹もアカギはカイジより優れているわけで、生来の勝負強さも考慮に入れれば、アカギが勝つのは自明の理と言えた。

 それにしたって、初めてのバッティングセンターで、それもたったの2プレイでホームランを叩き出すというのは、やはり化け物じみている。
 カイジの主たる敗因は、こんなチート持ちに「慣れる」機会を与えてしまったことであろう。


 今日こそはアカギに勝てると意気込んでいたのに見事なまでに返り討ちにされ、ちょっと涙目になっているカイジに、アカギは愉快そうに喉を鳴らして笑った。
「コツ、教えてやろうか? 手取り足取り」
「いらねぇよ、バーカ……!!」
 忌々しげに吐き棄てるカイジにますます目を細め、アカギはカイジに一歩、近づいた。

「さて……オレが勝ったわけだし、なにをいただこうかな」
「!!」

 カイジはサーっと青ざめる。
「そ、そんな取り決めしてねえっ……! さっきから、お前が勝手に言ってるだけだろうがっ……!!」
「それは、そうだけど。でもあんた、どうせ自分が勝ったら、オレから金巻き上げてやろうとか企んでたんでしょ」
 アカギよりカイジの方が圧倒的に有利なはずだった、この勝負。
 勝ったときに、カイジがなにも要求しないはずがない。
 それくらいお見通しだよとアカギが囁くと、カイジはぐぅと唸って黙り込む。

 それでも、無様に大敗を喫したという自覚があるからか、カイジは強く唇を噛み、アカギの要求を呑もうと潔く腹を括ったらしかった。
 なにかを堪えるような顔でうつむくカイジに目を細め、アカギはその姿を舐めるようにじっくりと見つめる。
「ここ、こんな遊びみたいな勝負で、腕、とか、指、とか、言わねぇよな……?」
 絡みつくような居心地の悪い視線に晒され、震える声で問うてくるカイジに、アカギはクスリと笑った。
「血を見るような真似はしないから、安心しな」
 その言葉に、心底ホッとしたような顔をするカイジを見て、アカギの顔に悪魔じみた笑みが浮かぶ。
「……まぁ、体の一部は、いただくけど」
「!?」
 呟きざま、弾かれたように上がったカイジの蒼白な顔に、アカギは顔を近づけ、素早くその唇を奪った。

 キン、という乾いた音が、相変わらず静かな場内に響き渡っていた。





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