駄目押し 「牽制」の続き


 カイジの部屋の前に立つと、微かな、でもはっきりと家主のものだとわかる歌声が聞こえてきて、アカギはノックしかけた手を止めた。

 アカギの知らない歌だ。その声の出どころは、風呂の換気扇。
 機嫌よさげな歌声は、歌詞の怪しいところをハミングで誤魔化したり、ときどき音程を外しては咳払いを挟んだりしている。
 やがて歌に重なって、シャワーの水の流れる音がしばらく続いて、それが止まると歌声も遠のいていった。

 アカギはドアの前で握ったままだった拳で、コツコツと軽くノックをする。
 しばらくして顔を出した家主は裸足で、ジーンズの裾を折り上げていた。
「こんばんは」
 アカギが挨拶すると、カイジはひとつ頷き、「上がれよ」と促した。


 居間に通され、アカギは床に座りながらカイジに訊いてみる。
「なにしてたの?」
 換気扇からの歌声と、カイジの格好を見てわかりきっていることなのだが、確認の意味を込めて問うと、
「風呂掃除……たまにはシャワーだけじゃなくて、お湯に浸かりたくなって」
 案の定、アカギの予想した通りの答えが返ってきた。

 胡座をかいてジーンズの裾の折り返しを伸ばしながら、カイジはアカギに言った。
「ちょうど、お前が来て良かったよ。オレひとりだけ入って、すぐ流しちまうのも勿体ねえからな」
 風呂、入るだろ? と問われ、アカギは「うん」と返事をする。

 それから、カイジが顔を上げるのを待って、
「なんか、いいことでもあった?」
 と問いかけると、カイジはひどく面喰らったような顔で瞬いたあと、ヘヘヘと脂下がった笑みを浮かべた。
「勝った……ギャンブル。ひさびさに」
「へえ。パチンコ?」
「……と、競馬も……」
「ふーん。すごいじゃない」
 抑揚のないアカギの褒め言葉にも、カイジはふふんと得意げな笑みを深くする。
 それから、アカギに向かって不思議そうに問いかけた。
「なんで、いいことあったってわかんだよ……? あ……もしかして、顔に出てた……?」
 ぺたぺたと緩んだ頬を触るカイジに、アカギはくつくつと肩を揺らす。

「……まぁ。それも、あるけど」
 風呂掃除してるときの、歌。
 廊下に漏れ聞こえてたよ、と揶揄おうとして、アカギはふと、口を噤む。

「ねぇ、カイジさん。あとで一緒に、風呂入ろうよ」
 アカギがぽつりとそう言うと、カイジは嫌そうに眉根を寄せる。
「え……やだ」
 キッパリと断られ、「そう」とそっけなく言いながら、アカギはポケットからハイライトを取り出した。
「寿司……食いたくなったから、出前でも取ろうかと思ってたんだけど」
「!!」
「もちろん、オレの奢りで」
「マジかよ!?」
「あぁ。でもまぁ、あんた次第かな……」
「……」
 一言つけ加えるごとに、如実に変化していくカイジの表情を愉しみながら、アカギはタバコに火を点ける。

 わかりやすく逡巡しているカイジの手許、卓袱台の上にある携帯電話の時計は、ちょうど午後八時を指している。
 この間、ふたつ隣に住んでいるという中年男と部屋の前で出会したのは、たしか二時間後の、午後十時だったことをアカギは思い出していた。

 その時間を狙って風呂に入ろうとアカギが画策していることも、風呂場で発せられる声が換気扇を通して部屋の前を通る者に丸聞こえになるという事実も、カイジは当然、知らない。

 件のサラリーマンは、近ごろ急にカイジと距離を置くようになったらしいが、
(まぁ……念には念を、ってことで)
 心中で呟いてアカギはひっそりと笑い、長くなった灰を灰皿に落とす。

 目の前の悪漢の企みにはまったく気づかないまま、カイジは寿司と己の貞操を天秤にかけ、唸りながら迷い続けるのであった。





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