ストロベリージャム 



 香ばしい匂いが鼻先を擽り、アカギはゆっくりと瞼を持ち上げた。
 床に敷かれた、薄っぺらい来客用の布団の中で軽く身じろぐ。外からの白っぽい光が起き抜けの目に眩しく、眉を寄せて軽く顔を顰めた。
 外は清々しく晴れ渡っているようだ。細く開けられた窓から、ひんやりとした冬の空気が部屋に流れ込んでくる。

 体を起こし、ベッドの上を見る。家主はすでに起き出し、朝食の支度をしているようだ。
 アカギの起きるのが遅かったのか、家主の起きるのが早かったのか。どちらにしろ、アカギが家主より遅く目覚めるというのは、とても珍しいことだった。

 珍しい、といえば、部屋中に漂う、あたたかくふくよかな香り。
 アカギがこの部屋で嗅いだことのないそれは、キッチンから漏れ出しているらしい。

 戸を一枚隔てた向こう側に、動き回る人の気配がある。
 ぼんやりとアカギがそちらを眺めていると、やがて引き戸がガラリと開き、家主が顔を出した。
「ああ、起きたのか。おはよう」
「……おはよう」
 アカギが挨拶を返すと、家主ーー伊藤開司が、こころもち口角を上げる。
「ちょうどよかった。簡単だけど、朝メシ用意したから」
 食うだろ? と。
 問いかけの形を取ってはいるけれども、まるでアカギが首を横に振る可能性なんて想定していないかのような口振りでカイジは訊く。
 ほんのわずか沈黙したのち、アカギが微かに頷くと、「じゃあ、布団片しとけ」と言い置いて、カイジは台所へと引っ込んでいった。

 言われたとおり、アカギは布団を畳んで部屋の隅に押し遣る。
 昨晩、布団を敷くため壁際に追い遣っていた卓袱台を部屋の真ん中に戻したところで、ちょうどカイジも居間へと戻ってきた。

 コーヒーカップと、トーストの乗った皿が二つずつ。
 ちいさなお盆に無理やり乗せたそれらを、カイジはソロソロと運び、卓袱台の上に置いた。

「トースター、実家から要らなくなったの送ってきたんだけどさ。まだ、使い慣れてなくて」

 ボソボソとそう言い訳して、ややこんがりしすぎてしまった食パンをアカギの前に押し遣る。
 アカギの目を覚まさせた香ばしい匂いの出所は、これだったのだ。

 湯気の立つコーヒーカップをその隣に置き、自分の側にも同じようにトーストとコーヒーを置くと、カイジは再度台所へ消え、今度は目玉焼きの乗った皿を二枚と、真っ赤なジャムの瓶をひとつ、お盆に乗せて運んできた。
 こっちは、焦がさずにできたんだけど……、と、独り言のようにそんなことを零しながら、目玉焼きをアカギと自分の前に置く。

 あっという間に用意されたシンプルな朝食を、アカギがなんとなく黙って眺めていると、
「食おうぜ」
 対面に座ったカイジがそう促してきたので、アカギは頷いた。

「いただきます」
 ふたりしてそう呟いてから、アカギはコーヒーカップを持ち上げる。
 一口啜ると、火傷しそうに熱い液体が喉を滑り下りて胃に落ち、体を芯から目覚めさせていった。

「…………」
 カップを持ったまま、アカギは対面を見る。
 カイジはスプーンでたっぷりと掬ったいちごジャムを、トーストにぺたぺたと塗りたくっている。
 俯きがちの、やたら熱心な顔つきで。
 黒く焦げた表面が見えなくなるくらい厚く塗ったあと、瓶の蓋を閉めようとしたところで、ようやくアカギの視線に気がついて、目を瞬いた。
「……お前も、塗る?」
 アカギが首を横に振ると、カイジは瓶を手許に置き、トーストに噛り付いた。

 ざく、と食欲をそそる音が静かな部屋に響き、香ばしい匂いが、一段と濃くなる。
 もぐもぐと口を動かしながらコーヒーカップを引き寄せて、口をつけた瞬間、
「あちっ」
 短く声を上げ、顔を顰めて湯気を吹き飛ばすカイジを、アカギは手を止めたまま、真顔でじっと見つめていた。

 さんざ息を吹きかけた黒い水面を、カイジは舌でつつくようにしてこわごわと舐め、ホッとしたように息をつく。
 そこでふと、アカギの手が止まっているのを見咎めたらしく、不思議そうに口を開いた。
「……食欲ねえの?」
 つり上がった双眸に顔を覗き込まれ、アカギはふたたび、首を横に振る。
 それから、ずっと持ったままだったコーヒーカップを食卓の上に置くと、そのちいさな音が引き金になったみたいに、

「これ食い終わったら、ここを出るよ」

 そんな言葉が、ふいにアカギの口を突いて出た。

 一拍の間ののち、大きな目がさらに大きく見開かれていくのを見ながら、アカギもまた、驚いていた。
 こんなことを言うつもり、これっぽっちもなかったからだ。
 ただ、なんてことのないカイジの動作を眺めていたら、勝手に舌が動いて言葉を紡いでいた。
 己の意思とは無関係に。

 アカギが硬直しているほんのわずかな隙に、カイジは大きく瞠られた目をゆっくりと伏せ、すこし俯いた。
「そう、か……」
 コーヒーカップを持ったまま、ちいさな声で呟く。
 落ち込んで、項垂れているようにも見えるその姿を眺めていると、まるで泉が湧き出るみたいに、アカギの中からまた、言葉が込み上げてきた。

「あんたのこと、好きになっちまったみたいなんだ」

 唇から零れ出たその言葉を自分で理解するよりも早く、ハッとするほどの鮮やかさで変化する相手の表情で、アカギはその意味を知る。
 知って、ああ、そうだったのかと、初めて自覚した。

 そうするのが当たり前みたいに、ふたり分の朝食を用意するところも。
 焦がしてしまった二枚のトーストの、より黒い方を自らの手許に残すところも。
 ジャムを塗るときやコーヒーを飲むときの、妙に可笑しい仕草や表情も。

 取るに足らないようなそれらを飽かず眺めていられるのも、硬い床に敷かれた薄っぺらい布団の上で、異様なほどよく眠れる理由も。
 すべては『好きだから』だったのだと、アカギは悟って、だからこそ、無意識のうちに離れようとしていたのだと知った。


 ふたりの食事の手は完全に止まり、長い沈黙の中、アカギが対面に目を遣ると、意外にも、カイジはアカギをじっと見つめていた。
 目が合うと、ちょっとビクッとしてから、おっかなびっくり、口を開く。

「……好きになっちまったから、オレから離れるのか?」

 今度は、アカギが目を見開く番だった。
 カイジの声や表情に浮かんでいるのは、嫌悪や軽蔑ではなく、浮ついたような戸惑い。
 そわそわと落ち着かない様子で、視線をテーブルの上に彷徨わせながら、カイジは続ける。

「おかしなヤツだな。普通、逆だろ」
「……そう?」
 殊こういうことに関して、自分の感覚が普通とは違うことくらいわかりきっていたが、アカギは空とぼけてみせる。
 すると、カイジはわずかに緊張した面持ちになり、咳払いをひとつして、ぽつりと呟いた。
「好きなヤツとは、離れたくねぇけどな、オレは……」
 ちらり、とアカギの方を窺うように見て、ぎこちなく目を逸らす。

 カイジにしては、ずいぶんと大胆な発言をしたものだ。頬が仄かに、赤く染まっている。
 それでも男のプライドなのか、なにごともなかったような顔を取り繕って、トーストに大きくかぶりつく男を眺めていると、『これ食い終わったら、ここを出るよ』なんて言ったことを早くも覆してしまいそうな自分に気がついて、アカギは軽くため息をついた。

 しくじった。
 この人が好きだと、自覚する前に離れておくべきだったのだ。
 恋というものの厄介さを、アカギはこのとき初めて思い知った。
 図らずも、カイジも同じ気持ちだと知ることができたわけだが、アカギの心を満たすのは成就の喜びよりも、珍しい後悔の念だった。
 気がつけば雁字搦めに絡め取られ、これで自分はきっと、この人から離れられない。この先も、ずっと。

「まぁ、いいや……どうせ、また来るんだろ?」

 トーストを咀嚼するついでみたいに投げられたそんな問いにも、アカギは首を横に振ることができず、ややげんなりする。
 初めて味わう感情は、胸焼けがしそうなくらい甘くて、アカギはすこしでもそれを中和しようとするみたいに、顰め面のまま焦げたトーストの端を齧った。

 アカギの複雑な心中など知る由もないカイジは、その仏頂面の原因が苦いトーストのせいだと思い込んで、「だから、これ、塗れば……」などとモゴモゴ呟いては、真っ赤な瓶を押し付けようとしてくる。
 なにも知らない暢気な面に腹が立って、アカギはトーストを咥えたまま、すべての元凶である惚れた男を、半眼で睨みつけるのだった。






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