神さま




 酒だか水だかわからないような濃度の、ぬるいアルコールを喉に流し込んで、
「出よう、カイジさん」
 アカギがそう声をかけると、カウンターに突っ伏している黒い頭がもそりと動いた。

 どうやら、首肯したらしい。それにしては、いつまで待っても体を起こす気配がない。穏やかな呼吸に上下する丸い背中をしばらく眺めてから、アカギはだらんと床に向かって垂れているカイジの腕を掴んで引っ張り上げた。

 腑抜けたようなその男は、アカギに腕を引かれるままズルズルと立ち上がると、体重をかけてアカギの肩に寄りかかった。咄嗟に腕を伸ばしてそれを支えたアカギの、白いスーツに皺が寄る。
「自分で立ちなよ」
 アカギが言ってもカイジは答えず、代わりに顔を上げて、へへ、と笑った。
 ふにゃりと、力の抜け切った笑顔。
 人目を気にせず、カイジがこんな風に体を預けてくるのは珍しい。酔いが回り過ぎて、ここが行きつけの呑み屋であるということを忘れているのかもしれない。

 手を離せばぐしゃりと崩れ落ちてしまいそうな体を支えながら、アカギは歩きだす。
 片手で器用に勘定を済ませて店の外に出ると、十一月の刺すような夜気がふたりの体に纏わりついてきた。


 吐く息はすでに白く染まり、空気を濁らせてはスッと溶け消えていく。
 アカギは男の体に回した腕で、背から腰のあたりを支えながら黙々と歩く。

 すると、ややあって、
「……速ぇよ。もっとゆっくり歩け」
 ただ引き摺られるようにして歩いていたカイジが、チクリと文句を言った。

 ふわふわと呂律の怪しい声に、アカギは軽く眉を寄せる。
 背を屈めてカイジの顔を覗き込むと、垂れた黒く長い髪越しに大きな目と目が合って、クスクスと笑われた。
 相当、深く酔っ払っているものらしい。アカギは閉口したが、珍しく上機嫌なカイジの様子を見て、ため息をつくとそのまま歩き続けた。

 カイジは、酒が入るとごく偶に、幼い子供に戻ったみたいになる。
 どうやら、不器用なこの男なりに、甘えているつもりらしい。最初は煩わしく思ったアカギだったが、それがわかってからは、できる限り黙って言うことを聞いてやるようになった。お互い『男』であるということを意識しすぎて、酒の力を借りなければこんな風にできない恋人のすることだから、余計に。


 アカギは歩調を緩め、ネオンの溢れる繁華街を行く。酒臭い呼気と高い体温が近くて、冷えきったアカギの体が、カイジに触れている部分だけじんわりと温もった。

 カイジは相変わらず気分良さげに笑っている。放っておけば、鼻歌でも歌い出しそうな勢いだ。
 さっき居酒屋で互いの近況を話したとき、最近またしょぼいギャンブルに負け、派手に散財したのだと言っていた。

 それなのに、なぜ、こんなに愉しそうにしているのだろうか。
 なにげなく、その素朴な疑問を口に出そうとしたとき、ふいにふたりの背後がざわめいた。

「赤木しげるだ……」
「あの『神域』の……!?」

 たった今すれ違ったチンピラ風の若い男二人組が、アカギに気づいて声を上げたのだった。

 アカギは内心、舌打ちをする。
 神域の男。アカギの知らないところで誰かが勝手に付けた二つ名が、いつの間にかアカギの知らない誰かの口に上って、本人の耳に届くまでに広まっている。

 アカギの神憑り的な強さに対する憧れや畏敬の念の象徴とも言える、この呼び名。
 だがアカギにとっては、決して気分の良いものではなかった。特に今みたく、顔も知らない相手にコソコソ呼ばれるのは、見世物にでもされているようで、気に喰わない。

「へぇ〜、『神域』だってさ」

 感心したような呟きが隣から漏れ、アカギがそちらに視線を向けると、赤く潤んだ瞳で覗き込むように見上げてくるカイジと目が合った。

「つまり、神さまみたいだ、ってことだろ? なんかわかんねぇけど、スゲェのな、お前」

 どっちかっつうと悪魔の方が近いと思うけどなぁ、オレは。
 暢気な声でそう言って、ひとりで喉を鳴らすカイジから、アカギは目を逸らす。

 そう。
『神域の男』と呼ばれていることを知ったとき、アカギは失笑すらできなかった。
 麻雀や博奕の腕をそう喩えられているのだということは、百も承知である。
 が、よりにもよって『神域』とは。

 カイジの言うとおり、自分の本性は到底、神などと呼べるものではないとアカギは思っている。
 誰も救わない。振る舞いたいように振舞って、結果的に誰かの命を救うこともあっただろうが、それ以上に他の誰かを傷つけ、あるいはその命を奪ってもきただろう。

 アカギは黙ったまま、自分に凭れてふにゃふにゃと歩く酔っ払いに目を向ける。

 自分よりも。
 などと、ふと思ったのだ。

 うだつの上がらない男だ。普段は簡単なギャンブルにも勝てず、常に素寒貧で、世の中の大多数からは、クズだと罵られるような男。
 しかし、アカギは男の本質を知っている。生死を分かつような極限の状況で覚醒する、その資質。
 眩いばかりのそれを、男は自分のためだけではなく、誰かのために惜しげもなく発揮する。
 裏切られ、煮え湯を飲まされて大事なものを損なっても、愚直なまでに人を信じ、頼られれば我が身を省みず、全力で手を差し伸べようとする。

 こういう男こそが、いつか、本当の意味で誰かの神さまになるのかもしれない。
 割と本気で、アカギはそう思うのだ。

 その『誰か』は、男と同じように『クズ』と呼ばれ蔑まれるような人々なのかもしれないけれど。
 一億数千万人のうちの、たった数人の胸にだけ深く刻まれ、決して広くは知れ渡らないような、ささやかな救いなのかもしれないけれど。
 それでも、男は自分なんかより、もっとずっと、神さまと呼ばれるに相応しいような気がしていた。

 アカギには男のような生き方は出来ないし、したいとも思わない。
 でも、ごく普通の、平々凡々とした感覚を持った人間として生まれて、この男に救われてみたかった、などと、時々思ってしまうのだ。
 人生のドン底で、力強く自分の手を引いて這い上がろうとする背中は、いったいどんな風に見えるのだろう。
 見ることが叶わないからこそ、その輝きを見てみたかったな、なんて思うのだ。


 アカギがどんなことを考えているか露も知らないカイジは、どこか眩しげに自分を見つめる視線に気がつくと、怪訝そうに眉を寄せる。
 が、すぐさま目を細め、悪戯っぽくニヤリと笑った。

「オレもこれからお前のこと、『神域』って呼ぼうかな」
「……」
「よぉ、『神域』」
「……自力で歩かせるぜ?」

 はははっ、と声を上げて笑い、カイジは置いて行かれまいとするように、アカギの肩に回した腕に力を込める。
 酒臭いぬくもりが一段と近くなるのを感じ、アカギはふと思い出したように、さっき聞きそびれた疑問を口に出してみた。

「ギャンブル、負けたんでしょ。なんでそんなに、愉しそうなの」

 すると、カイジはとろんと眠たげな目をほんのわずか大きくして、

「お前って鈍感だよなぁ。神さまなのに」

 そう言って、アカギが嫌そうに顔を歪めるのを見ると、あたたかく白い息を吐き出して、また笑った。







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