歩いて帰ろう
どうやら、いつの間にか眠っていたらしい。
ふっと目を覚ますと、眼前に見慣れぬ光景が広がっていた。
ちいさな公園だ。古ぼけた青いベンチに座っている。
ブランコや鉄棒、滑り台やシーソーなんかがあるが、辺りは闇に沈んでいて、人の姿はなく、寂寞としている。
軽い頭痛がしてきて、こめかみを押さえながら、やれやれ、とため息をついた。
わかること。を、とりあえず頭の中でなぞってみる。
名前。赤木しげる。年齢。五十三歳。今日の日付。九月十三日。只今の時刻。公園の丸時計が正確なら、九時四十分。……辛うじて、ここまではわかる。
だが、その先。自分がなぜこんな場所にいるのか、そもそもここがどこなのかということが、まったく思い出せない。
わかることとわからないことが整理できると、鈍い頭の痛みは治まってくる。まあ、近ごろじゃ珍しいことではないからと、のんびり構えてベンチに深く掛け直す。
とりあえず一服、とタバコを取り出すついでに、なにかヒントになるようなものはないかとスーツのポケットを探ってみる。ここがどこなのか、自分がなぜここにいるのか、わかるようなヒント。
すると、ちいさな紙切れのようなものが、指先に当たってカサリと音をたてた。
ポケットの中にくしゃくしゃに丸まって入っていたそれを、取り出して開いてみる。
なんの変哲もない、ただのレシートだ。タバコと唐揚げを、とあるコンビニで買っている。タバコはともかくとして、俺はコンビニで唐揚げを買うことなどないから、俺が買い物したレシートではないのだろう。おそらく。
裏を見ると、そこには11ケタの数字の羅列。どうやら、携帯電話の番号らしい。
走り書きされた右上がりの数字を矯めつ眇めつしてみるが、筆跡に心当たりはない。……いや、真実はそうではなく、単に俺が思い出せていないだけなのだろうけれど。
他のポケットを探ってみても、出てくるのは小銭やマッチばかりで、手がかりになりそうなものはなにひとつないので、とりあえずタバコを吸ったあと、皺くちゃなそのメモを手に立ち上がる。
公園の入り口近くに、電話ボックスが白っぽい光を放っているのが見えていた。ガラスの扉を開け、透明な箱の中に入る。
やたらめったら記憶が飛ぶようになって久しいが、日常の基本動作を忘れてしまうほどには症状は進行していない。
受話器を上げ、ポケットに入っていた十円玉を入れる。
手中の小さな紙に書いてある電話番号を押して、受話器を耳に当てた。
無機質な呼び出し音が、繰り返し鳴る。
果たしていったい、どんな奴が出るのか。男か女か、自分と一体どんな繋がりのある人物なのだろうか。その声を聞いたら、ここがどこだか思い出せるのか。
居場所のヒントになり得そうなのがこの電話だけという状況を、ちょっと面白がっている自分がいる。
昔から、深刻さが足らないなんて周囲によく呆れられていたが、深刻になったところで状況はなんにも変わりゃしねえんだから、どんなときでも今を愉しむほうがずっと有意義だ。それに別段、今は危機的状況ってわけでもない。……たぶん。
子供も利用する公園の側にあるからか、この電話ボックスには風俗や消費者金融のチラシ一枚貼られていない。ガラス越し、闇に沈んだ景色を見るともなしに眺めながら応答を待つが、相手は電話に出ない。
細かに震えるような機械音が七度、鼓膜を打ったところで、諦めて受話器を置くことにした。
しかし、受話器を耳から離したところで、ちいさな声が漏れ聞こえてきたので、手を止める。
『……もしもし?』
受話器を再び耳に近づけると、怪訝そうな声が飛び込んでくる。
こころもち高めな、若い男の声だ。ぶっきらぼうな口調だが、その高さのせいか、耳ざわりは存外やわらかい。
こちらからは口を開かず、無言のまま相手の様子を探る。
すると、相手の声は『もしもし?』を数度繰り返したあと、ふつりと沈黙してしまった。
悪戯だと思って、警戒しているのだろう。
声を発さなくなった受話器を耳に押し当てたまま、数十秒。
狭く無音の電話ボックスの中にいるのにも飽きてきて、ふわりと欠伸が漏れ出た頃、このまま電話を切るかと思われた相手の声が、ふいに耳に飛び込んできた。
『もしかして、赤木さん……ですか?』
心許なさげに、ぽつりと。
初めて口にするかのように、その声は俺の名前を呼んだ。
名前を呼ばれたことが意外だったのと、呼び方がひどくぎこちなかったのとで、俺は吐息と共に、思わず笑いを漏らしてしまった。
低く、ごく微かに喉が鳴っただけだったが、声の主は耳聡く聞き咎めていたようだ。
『いったい今、どこにいるんですか? 赤木さん』
もはや完全に確信を得たような、しっかりとした口調で問いかけられる。
たったあれだけ、声とも言えないような笑いだけで俺だとわかってしまうとは。それほど、男と俺は近しい間柄だということなのだろうか。
それにしては、相手と対照的に、声を聞いても俺は未だ声の主のことをなにひとつ思い出せない。まるで俺の無意識が、電話の向こうの男のことだけ意図的に記憶から排除しようとしているかのようにすら感じられる。
『もしもし? 聞こえてますか? 今、どこなんですか?』
沈黙を続けていると、再度、問いかけられる。
真摯な声。理由はわからないが、切実に俺の居場所を知りたがっているようだ。
今どこにいるかって、それはこっちが聞きたいことなんだが。
内心頭を掻きながら、ただただ相手の声に耳を傾けていると、次第に声は大きくなり、切迫した響きを帯びてくる。
『もしもし? なにかあったんですか? なぁ、なんか言えって、赤ーー』
名前を呼ばれる前に、電話は切れた。
無音になった電話ボックスの中に、耳が痛いほどの静寂が戻ってくる。
手許のメモを眺めながら、俺は軽くため息をついた。
追加の硬貨を入れれば、ふたたび電話をかけることも可能だが、生憎もう手持ちの小銭はなく、ポケットから出てくるのはちいさく折り畳まれた万札だけ。
俺は受話器を置き、ガラスの扉を開けて外に出た。
叢から虫の声がする。九月に入ったが未だ残暑は厳しく、昼間に熱せられた空気が尾を引いているような蒸し暑さだ。
結局、たいした手がかりを引き出せなかった紙切れを、ふたたび丸めてポケットに捻じ込んだ。
とりあえず公園に戻り、先ほどまで腰掛けていたベンチに座りなおす。
どこか手持ち無沙汰な気分で、ぼんやりと空を見上げた。昼間曇っていたせいか、星はない。煌々と丸く明るい月だけが、地上を見下ろしている。
さて、これからどうしようか。闇雲に歩き回ってどうにかなるものでもないだろう。なにか思い出せるまで、ここにいるべきだろうか。思案しながらタバコを取り出し、咥えて火を点ける。
もうすこし、聞いていても良かったかもな。懐かしいような、さっきの声。ふと、そんな思いが胸の中を過ぎる。
煙を吐きながら目を閉じると、生ぬるく緩やかな夜風とともに、やたら必死そうなその声が耳許に蘇ってきた。
「赤木さん。赤木さんっ……!!」
懐かしいような、やたら必死な声。
ハッ、と気がつくと、目の前にひとりの男が立っていた。
特徴的な頬の傷と大きな目、黒い長髪。
受話器から聞こえたのと同じ声を持つその男に名前を呼ばれた瞬間、水が染み込むように霧が晴れ渡るように、思い出した。
その男のこと。それから、なぜ自分がここにいるのかということ。
欠けていた記憶が洪水のように押し寄せてくる、その感覚に一瞬、気が遠くなり、
「……カイジ」
失くしていた記憶の一片が唇の隙間から、ぽろりと零れ出た。
男はピクリと肩を動かし、わずかに顎を引いて頷く。
俺の肩に触れる寸前だった右手が、そろそろと引っ込んでいく。
揺り起そうとしていたのだろう。どうやら、俺はまた気づかぬうちに眠っちまっていたらしい。
男に会うのは久々だった。最後に会ったのは確か、二ヶ月くらい前だったかな。
座ったまま眠り過ぎたか。背中や肩がキシキシと痛む。
軽く伸びをして体を解しながら、間延びした声をかけた。
「お前、よくここがわかったな」
すると、カイジは大きな目を瞬き、
「わかるわけ、ないじゃないですか。公衆電話のある場所、片っ端から探し回って……つか、やっぱり赤木さんだったんだ……さっきの電話……」
ぼそぼそと、そんなことを呟いた。
よく見ると男の顔は軽く上気していて、額には汗が光っている。公園の丸時計は、電話をかける前より一時間以上も進んでいた。
「悪戯かと一瞬思ったけど、赤木さん、携帯持ってなさそうだし。もしかしたら、って……思って……」
軽く息を切らしながら、カイジは言う。
……ってことは、こいつはあの無言電話を受けてから、一時間以上も俺のことを探し回っていたわけか。
ちょっと意外だった。たまに一緒に呑むくらいで、こいつと俺はそう親しい間柄ってわけでもない。
「お前……、なんでそこまでして、俺のこと探したんだ?」
素朴な疑問をそのまんま口に出すと、男はちょっとムッとしたような顔になった。
「だって……言っただろ。必ず助けに行くって。オレを頼れって」
すこし拗ねたみたいに、唇を尖らせて。
男が漏らしたその言葉を聞いた瞬間、また、気の抜けたような笑いが零れた。
「そうか。……そうだったな」
頷きながら、思い出す。
こいつと出会った時のこと。
たまたま打った雀荘の側で、ゴロツキに取り囲まれ、しこたま殴られていたのがカイジだったのだ。
店を出て歩いていると、剣呑な声を耳が拾った。普段は気にも留めないことだが、その時はなぜか妙に引っかかって、ひょいと店の裏を覗いてみると、ガタイの良い男達が四人、地面に蹲る何者かに罵声を浴びせながら蹴ったり殴ったりしている。
加勢するつもりなど毛頭なかった。だが、そのうちの一人が俺に気づいて、カイジの仲間だと思い込んで殴りかかってきやがった。
面倒なことになったと内心舌打ちしながら、攻撃を躱すついでに蹴りを一発お見舞いしてやると、大げさなほど派手に吹っ飛んじまった。
一触即発って雰囲気になったが、そこで連中はどうやら俺が赤木しげるだってことに気づいたようだ。
どうやら、ちっとばかりやんちゃした若い頃そのままのイメージを、俺に対して変わらず抱いている人間も、ちらほらいるらしい。
顔色を変え、蜘蛛の子を散らすように逃げて行く後ろ姿を頬を掻きつつ見送って、蹲っているボロボロの男に、大丈夫かい、と声をかけた。
すると、そいつは顔を上げ、大泣きしながら、ありがとうございます、と何度も礼を言ったのだ。
助けたつもりなどなかったが、説明するのも面倒だったので、誤解は解かぬまま無言で手を差し出した。
瞼と唇と傷のある頬を腫らし、両の鼻から血を流しながら、その男は俺の手を掴んでフラフラと立ち上がった。
それから、また何度も頭を下げたあと、ジーンズのポケットを探って取り出したレシートの裏に、自分の携帯電話の番号を、震える手で書いたのだ。
曰く、助けてもらった恩返しがしたいのだと。
なにかあったらこの番号に電話してくださいと、拒否する間も無く掌の中にレシートを捻じ込まれた。
『どんなことがあっても、必ず助けに行くから。なにか……ピンチになったら、オレを頼ってください』
必要ない、と言おうとしたが、そのときのカイジの顔がひどく真摯で、両鼻から血を、両目から涙を溢れさせている顔面の惨状と表情のミスマッチぶりと、『ピンチになったら』って言い方がなんだか面白かったので、わかったよ、と返事をしてポケットにそれを丸めて突っ込んだのだ。
そしてそのまま、ずっと忘れていたのだった。
その夜以降、カイジとは雀荘でバッタリ出会すことが数度あって、そういうときに外で一緒に飲んだけれど、それでも俺からこいつに電話したことなんて、一度もなかった。
初めて会った時と同じ、やけに真摯な眼差しを浴びながら、俺はポケットの中に手を突っ込む。
カサリ、と音がして、指先に当たる、紙の感触。
ここに入れたことすら忘れていたのに、今こんな状態になってその存在を思い出すだなんて、なんだか皮肉だよな。
普段はポケットの中身なんて改めもしねえのに、忘れちまうことで思い出すこともあるんだなって思うと、なんだか可笑しくて、クッと喉が鳴った。
俺の笑いを聞き咎め、カイジは不思議そうな顔をして俺を見る。
そうだ。カイジは俺になにかあったと思い込んでいるのだ。『ピンチ』に陥ったから、自分に電話を寄越したのだと。
今まで一度も連絡を寄越さなかった俺が、電話してくるなんて、それも無言電話だなんて、なにかよっぽど深刻な事情があったんだと思って、飛んで来たのだろう。
「悪い。気紛れで電話しちまった」
笑いながら言ってやると、カイジはどっと疲れたような、でも、ちょっとホッとしたような顔になった。
「よかった、です……」
大きく息をつきながら背中を丸め、カイジは頭を掻く。
汗に湿った長い髪が夜風に揺れるのを眺めていると、
「でも正直……赤木さんからの電話じゃないかって思ったとき、ちょっと、嬉しかったんです。あんたは、助けなんて必要としない人だと思ってたから」
カイジはそう言って、はにかんだようにうっすらと笑った。
そう。そうだ。こいつはこういう奴だった。
どうして、俺は今まで、こんなこと忘れていられたんだろう?
『あのとき赤木さんに助けて貰ったのが、本当に嬉しかったんです』
いつだったか、酔っ払ったカイジが、勝手に喋り始めたことがあった。
『オレ、ちょっといろいろあったから……人が助けてくれたのって、久しぶりだったし……』
そんなことを言うカイジの、グラスを包む手の指には、生涯消えないであろう傷がついていて。
初めて会ったあの夜のことも、それよりもっと昔のことも、俺はカイジのことをなにも知らなかったし、聞こうとすらしなかったけれど、カイジはまるで子供みたいに、本気で嬉しそうな顔、していたっけ。
今、月を背負って目の前に立つカイジは、ベンチに座る俺を見下ろす形だ。初めて会ったあの晩とは、ちょうど互いに真逆の目線。
俺は黙って、カイジの方に向かって右手を伸ばした。
俺を助けるため、夜の街を走って走って、ここまでやってきたカイジ。
こいつは、きっと知らないのだ。この近くに病院があること。
病名なんてとうの昔に判明しており、今さら診察なんて無駄なことこの上ないが、世話になってる奴に診てもらえとどやされて、渋々足を運んだ。その帰路で、俺は記憶が飛んじまったんだ。
カイジは伸ばされた俺の手を見てちょっと戸惑ったような顔をして、それでも、黙ったまま手を掴んで引き上げてくれた。
こいつの手に触れるのは初めて会ったあの夜以来のことで、大きな掌は汗で湿って熱かった。
初めて会ったときに掴んだこいつの掌の温度を思い出そうとしてみたが、できなかった。そんなことは、もうとうに記憶の中から消え去ってしまっていた。
なぁ、カイジ。お前の思う通り、俺は誰の助けも必要としてねえよ。
でも、お前はそんな俺のことを、助けに来たんだろう?
だったら、お前の中では、お前の思う俺のままでいさせてくれ。最後まで。
お前を助けてやったあの夜の、俺のままでいさせてくれ。
そんな願望がふいに湧いてきて、俺は口許を緩く撓めた。
自分の真実はなにひとつ話さないまま、そっと口を開く。
「ひさしぶりに、お前と呑みたい。歩いて帰ろうぜ、お前の家まで」
立ち上がってからそう言うと、カイジはひどくびっくりした様子で、俺の顔をまじまじと見る。
「ここからですか? 散らかってるし、その……、かなり、遠いですよ?」
おっかなびっくり言われて、愉快さに喉が鳴る。
その、かなり遠いところにある見知らぬ公園まで、お前は俺を助けるために、一時間以上も走ってやって来たんだな。
なぁ、カイジ。なんだかお前のこと、もっと知りたくなっちまったよ。今さらだけれど。
ちょっと遅過ぎたな。お前には俺のこと、最後までなんにも知らせないくせに、お前のことは知りたいだなんて、ムシが良すぎるだろうか。
こいつといられなかった時間を、いられなくなる時間を、初めてほんのちょっとだけ、惜しく思った。
その惜しさも引っ括めて、俺たちの関係を愛おしく思った。
名前のつけようのないくらい、ささやかな、取るに足らない、関係。これ以上どこに進むこともなく終わっていく、俺たちの関係。
自然な笑みに頬が緩み、唖然としている男に向かってさらに言い募る。
「歩きたい気分なんだよ。お前、道中の話し相手になってくれ。ひとりで黙々と歩くんじゃ、退屈で死にそうだ」
俺を助けにきたんだろ? とおどけて言うと、カイジはわずかに渋面になる。
「ひょっとして……そのために電話、寄越したんですか?」
間の抜けた声に返事はせず、俺はただ、くつくつと肩を揺らした。
「ほら、行こうぜ。カイジ」
調子よく名前を呼び、俺はわざと高く靴音を鳴らして、さっさと歩き出す。
するとため息をつきながらも、カイジは俺の隣に並んできて、久々に見る呆れたようなその横顔が、俺の足取りをふわりと軽くした。
終
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