風船 暗い カイジさんが病み気味?

 


 お前は俺がいない方が幸せになれると、馬鹿みたいなことをその人は口走ったのだ。




 窓際に、男がひとり。
 タバコをふかしながら、外を眺めている。
 もう正午過ぎ。メシどうしますかと声をかけようとして、なんとなく口を噤んだ。

 無言で近づいて、視線の先を見る。
 見るともなしにただ外を眺めているのかと思ったが、違った。

 鋭い目の先には、青空を幾筋も走る電線。その中の一本に、普段は見かけないものが引っかかっている。
 紐付きの、丸いアルミ風船。それが、風に揺れているのだ。男はどうやら、それを見ているらしかった。

 昨日、近所で秋祭りがあったから、その帰りにどこかの子供が誤って引っ掛けてしまったのだろう。くっきりと濃い秋空の青に、その銀は太陽の光を乱反射し、きらりきらりと光っていた。

 ちいさな手を離れて高く高く昇っていく途中で、そこに引っかかって動けなくなったその姿をぼんやりと想像していると、
「なぁ」
 男がふいに口を開いた。
「あれって、どうなるんだ?」
 あれ、とはもちろん、風船のことなのだろう。
「どう……って、たぶん、取りに来るんじゃねえの」
「誰が?」
「え? ……電力会社、とか?」
 誰かが通報していれば、だけど。
 男がなぜこんなことを訊いてきたのか、その意図が掴めずに白い横顔を眺めていると、さして興味もなさそうに「ふうん」と呟いて、男は黙ってしまった。


 静かに凪いだ瞳が、風船を眺めている。
 天へ昇るところを邪魔され、身動きが取れないその姿に、短い睫毛に縁取られたその瞳は、なにかを重ねているんだろうか。
 そう思うとなんだかやりきれなくなって、そっと目を逸らした瞬間、

「お前は、俺がいないほうが幸せになれると思うんだがな」

 そんな言葉が鼓膜に突き刺さって、束の間、息が止まった。

 馬鹿な。
 馬鹿なことを言う人だと、思わず力の抜けた笑いが漏れる。

 それなら、幸せなんていらない。
 あんたのいない幸せなんていらない。
 これからどんなことが待ち受けようとも、オレがあんたから離れるつもりないことなんて、わかりきっているだろうに。
 
 その横顔に向かって、無駄ですよ、と心の中で囁く。
 どんな言い方をしたって、無駄だ。
 オレの気持ちは揺るがない。微塵も。

「それならいっそ、とびきり、不幸にしてください」

 笑ってそんな言葉を吐くオレは、どこかが壊れているのかもしれない。
 男はなにも言わない。オレの方を見ようともしない。
 そしてただ、ゆっくりと煙を吐き、手許の灰皿に長くなった灰を落とした。
 

 季節は秋。
 白い煙の向こうの、青い空。
 無粋な電線なんかに足止めされて空に昇れない銀色の輝きを、ふたりでただ、ぼんやりと眺めていた。






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