Gentian




 しげるがその男に出会ったとき、彼はすでに傷だらけだった。

 体の左半分にだけ縫い目や裂け目のある、歪な見た目をしたその男に、しげるが滅多に動かない食指を動かされたのは、傷だらけで歪な容れ物の中の魂が、稀有なほどきれいで誇り高いことを知ったからだ。

 彼はひとりぼっちだった。元々ひとりでいることを好む性格のようだったが、しげるがその男に感じ取ったのは、そういうこととはまるで性質の違う孤独だった。
 彼の周りには彼を傷つけ、あるいは置き去りにしていく人間しかいなかった。それでも、彼は人を信じ、時には助けようとまでするのだった。
 確かな博奕の才を持ちながら、どうしたらそう、他人に甘くなれるのか。そんな情は渡世人には必要ない、生きる上での枷になるだけだ。本人も他人に傷つけられるのにはうんざりしているだろうに、それでも冷酷にはなれない。そんな彼の魂が、彼を孤独にさせているのだった。


 しげるが訪ねていくと、男はひどく無愛想に「上がれよ」と呟いた。目すら合わせようとしない、一見冷淡なその態度が、実は単なる戸惑いからくるものだとしげるは知っている。
 わからないのだ。しげるのような子供が、自分を構おうとする理由が。どうやら、男は自分の魅力というものをまったく理解していないらしい。加えて言うなら、しげるが普通の子供ではないということも。
 過去の苦い経験からか、警戒心を隠そうともしない瞳の落ち着きのない動きの中に、ときおり男の過去がちらつく。

 たくさんの傷を抱える男。
 出会った当初、しげるはごく人並みの自然な感情で、傷つけたくない、と思ったのだ。すでに傷だらけのこの人を、せめて自分だけは傷つけまい、と。
 そう思うくらいには、男に絆されていた。

 だけどどうやら、それは無理なことのようだと、すぐにわかった。
 この男はとても傷つきやすい。きれいな魂を守るように、その心と体にはなにもせずとも容易く傷がつく。そして血を流す代わりに、男は透明な涙を大きな目からたくさん溢れさせるのだ。

 幸か不幸か、傷つきやすい分、痛みに対する耐性も強く、男は時に傷つくことに無頓着になることがあって、それがまた、傷を増やす要因になっていた。
 どんなに辛酸を舐めさせられても、人として生き抜くことを、決して投げ出したりしない。何度踏みつけても折れない草花のように愚直な打たれ強さは、彼の魂のきれいさに裏打ちされるもののようだった。
 男の苦しく生きにくいであろう性質に理解が及ぶにつれ、きれいな魂だけに惹かれていたはずが、傷だらけで歪な容れ物の方も悪くないと、しげるはいつの間にか思うようになっていた。

 傷つけないのは、不可能だと知った。それならば、と、ある日しげるは考えを改めた。
 どうせ傷がつくのなら、他の誰にも真似ができないくらい、今まで男を傷つけてきた誰よりも、上手く傷つけてやろうと思ったのだ。

 鋭利な刃物で、躊躇いなく斬りつけるみたいに。
 血は噴き出るし、痛みも強かろうけれども、すぐに塞がり、痕も残らないような傷。
 やがてはそこに傷があったことさえも、きれいさっぱり忘れてしまうような傷を。

 傷のつけ方を考えるとき、しげるの思考は自然に男との別れの方へと流れた。傷はあっという間に消えたとしても、自分の顔は男の中にずっと残るはずだ。そういう傷つけ方をする人間など、男の周りにはいなかっただろうから。
 例えば自ら男のもとを去ったとして、男は自分を忘れられるだろうか。きっと忘れられないに違いない。忘れようと必死にもがけばもがくほど、忘れがたくなる。まるで呪いのように。
 ひとりに戻った男が自分に雁字搦めになって苦しむ様子を想像すると、しげるの心はふわりと浮かぶように高揚するのだった。
 男の過去が残す惨たらしい傷跡を、自分のつける透明な傷で上書きしていくような、高揚感。ただそれを味わいたいがために、惚れている男といつか離れることまで考えている。

 傷つけたくないと思っていたはずなのに、気がついたらどうやってうまく傷つけるかということばかり考えていた。
 しげるは内心で苦笑し、頬杖をつく。
 目の前の少年の不穏な思考など露ほども知らない男は、不器用に泣いたり怒ったりしている。だいぶ気が緩むようになって、酒が入ると自然体の表情を曝すようになってきた。そのことを喜ばしく思う気持ちもありながら、やはりしげるが考えるのは、自分と別れてひとりぼっちになった男の震える背中だった。

 野良犬がすこしずつ懐いてきたみたいに、さまざまな感情をおっかなびっくり見せはじめた男に、しげるは声なく語りかける。

 大丈夫。ぜったいに、オレはあんたを裏切ったりしない。
 あんたの味方だよ。いつか離れる日がくるとしても、最後の、その瞬間まで。

 しげるの顔に浮かんだ淡い笑みは、泣いてるみたいに潤んでいる男の瞳に、いったいどう映ったのだろうか。
 男はしげるの顔を見て、大きな目をちょっと見開いたあと、酔って赤い顔のまま、初めてぎこちなく笑ってみせたのだった。




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