塩むすび キャラ崩壊注意


 狭くるしい部屋の中をバタバタと走り回っては、
「やべっ……!! 遅刻するっ……!!」
 などと焦った声を上げている家主の姿を、赤木は床に胡座をかいたまま、ぼさっと眺めていた。

 根が怠け者のカイジは、いつも遅刻ギリギリの時間にならないと重い腰を上げない。
 この若者は、博奕以外のことには学習能力というものをいっさい発揮しないらしく、もはやお馴染みとなっている出勤前の光景に、まったく動じることなく赤木はタバコを取り出した。
「携帯、忘れるなよ。カイジ」
 一本抜き出して咥えつつ、のんびりと声をかければ、まさに居間から出ようとしていたカイジは「あっ……!!」と短く叫び、急いで取って返して机上の携帯電話を引っ掴む。

 埃っぽく淀んだ部屋の空気を慌ただしく掻き混ぜながら、カイジは今度こそ、居間を走り出ていった。
 そのまま、靴を履いてドタバタと玄関から飛び出していくものと赤木は思っていたのだが、予想を裏切り、カイジはなぜかキッチンへと足を踏み入れる。
 いつもとは違うその行動に、赤木は意外そうな顔で瞬きをした。

 キッチンは引き戸を一枚隔てた向こうにあるので、赤木からはカイジがなにをしているのか、直接見ることができない。
 が、相変わらず忙しなく動き回っている様子は、扉の向こうから聞こえる音や声で伝わってくる。

 ガチャンとなにかがぶつかる派手な音や、「熱っ……!!」という叫びのあとの大きな舌打ちを聞き、赤木は火の点いていないタバコを灰皿に置くと、立ち上がってキッチンへと足を向けた。





「なにやってんだ、カイジ」
 シンク横のスペースに立っている猫背に声をかけると、カイジはちらりと振り返ったが、すぐに元の通り、前に向き直ってしまう。
「今日のメシ……」
「今日のメシ?」
 答える暇さえ惜しいとでもいうような返事を鸚鵡返しして、赤木は音もなくカイジに近づく。

 すぐ真後ろに立ってそっと手許を覗くと、無骨な両手が丸い形に重ね合わされ、その隙間からつやつやと光る白い米粒が覗いていた。
「握り飯か」
 赤木が呟くと、カイジは大げさなほどビクッと体を跳ねさせたあと、ひどく驚いたような顔で赤木を振り返った。
 どうやら背後に立たれていたことに、まったく気がついていなかったらしい。
「ビ……ビったぁ〜……」
 はーっと安心したように息を吐き出すカイジに構うことなく、赤木はマイペースに話し続ける。
「珍しいな。お前が弁当作るなんて」
「弁当なんて、そんないいもんじゃねえよ……」
 ぼそぼそと言いながら、カイジはうつむいて手を動かし続けている。

 きっと、金がないのだろう。
 それも、バイト先のコンビニでカップ麺を買う金さえ惜しむほど、逼迫しているらしい。

 赤木は黙って、カイジの手許をじっと見つめる。
 不器用そうな見た目に反し、カイジの手は手際よくテキパキと白米を握りこんでいる。
 慣れているのかもしれない。なにせ、金欠が標準仕様のような男だから。

 きっちりとした三角形の塊が、日焼けした手の中でリズミカルにくるくる回るのを感心したように眺めてから、赤木はカイジの横顔へと視線を移す。
 よほど急いでいるのだろう。カイジはすぐそばにいる赤木の存在など忘れてしまったかのように、手許にだけ意識を集中させている。

 たった握り飯ひとつ作るのにやたら真剣なその横顔を興味深げに観察していた赤木だったが、やがてふと名案を思いついたように、うすい唇をつり上げた。

「なぁ、カイジ。俺にもそれ、作ってくれねえか?」
「は?」

 素っ頓狂な声が上がり、大きな双眸が赤木を見る。
 ようやくカイジとまともに目が合って、赤木はますます笑みを深めた。
「作って……って、これをですか!?」
 信じられないとでも言いたげな口調の問いに、赤木は大きく頷いてみせる。
「俺もこれから代打ちなんだよ。言ってあっただろ?」
「でも、今日はたしか、料亭で……って」
 昨夜聞いた話の記憶を辿りつつ呟くカイジに、赤木は再度、子供みたいに頷くと、
「でも俺は、お前の作った握り飯が食いてぇんだよ」
 と言った。

 突然のおねだりにひどく面食らい、辟易した様子でカイジは口を開く。
「なに言って……こんなん、ぜんぜん美味いもんじゃないっすよ」
「そんなことねえさ。謙遜すんなって」
「あの、でも今日は時間が……」
「だから、早く作ってくれよ」
「わ、わかりました! じゃあ、次来たときにーー」
「俺は今日食いてえ。今日じゃなきゃ、イヤだ」
 なにやらグダグダとしたカイジの言葉をきっぱりとすべて撥ねつけ、赤木は頑として譲らない意思を示す。
 よりにもよって、一刻を争うこのときに発動した神域の男のワガママに、カイジはううと唸って頭を抱えた。

「今日は、今日だけはマジ、勘弁して下さいよっ……! 時間、ヤバイんだって……!!」
 泣きそうな顔で必死に訴えてくるカイジに、赤木は力強く首を横に振ってやる。
「却下」
 一言でバッサリと斬って捨てると、カイジは腹立たしげにぐっと唇を噛み締め、激しく視線を彷徨わせたあと、堪えられない憤懣を逃すように深くため息をついた。

「……十万」
「ん?」
「握り飯いっこ、十万で請け負うっ……!!」
 焦燥に目を血走らせながらも、重々しくそう宣言するカイジを見て、赤木は愉快そうに目を細める。

 いったん駄々をこね始めると、もう梃子でもぜったいに動かない赤木の性格を熟知しているからこそ、ならばいっそと、自分の得になる条件を突きつけてきたのだろう。
 その切り替えの素早さを褒めてやるように、赤木は軽く喉を鳴らした。
「いいぜ。……ただ、実は今、持ち合わせがなくてな……」
 実はここ数日、数百万単位の金を使って派手に遊んでいたせいで、赤木の懐事情もカイジに負けず劣らずの極寒なのだ。
 カイジは一瞬意外そうに目を丸くしたが、すぐにしたり顔でニヤリとほくそ笑む。
「それは、残念でしたね。じゃあこの話はーー」
「昨日、お前に土産を買ってやったら、ちょうど手持ちの金、底を突いちまってなぁ」
「……うっ!」
 申し訳なさげに眉を下げて呟かれた赤木の台詞に、カイジは痛いところを突かれたかのような呻き声を上げた。

 赤木に金がないと知ったカイジは、鬼の首を取ったように握り飯の製作を拒否してくるだろう。
 この恩着せがましい言い方は、それを防ぐための、いわば赤木の策とでも言うべきものだった。

 赤木の狙い通り、昨夜存分に堪能した旨い酒や焼き鳥の記憶が蘇ってきたらしいカイジは、うううと犬のように唸ると、それ以上の言葉を飲み込んだ。
 憎々しげにギリギリと歯噛みするカイジに、赤木の唇が優雅な弧を描く。
「次会うとき、耳揃えてちゃんと払うから。男に二言はねぇ。な、頼むよ。……カイジ」
 とどめとばかりに低い声を耳許に吹き込めば、カイジは「だーーっ!! もう!!」と大声で叫び、恨めしそうにキッと赤木を睨みつけた。
「味は保証しねぇからなっ……!!」
 やけくそのように言い捨て、手中の握り飯を手早くアルミホイルで包んでいく横顔が、ほんのりとうす赤くなっているのを見て、赤木は満足げに笑う。
「ありがとな。二個、作ってくれ。頼んだぜ」
 ポンとカイジの肩を叩くと、赤木は踵を返してキッチンを離れた。

 カイジが自分のために握り飯を作っている、その様子を愛でつつ横からちょっかいを出すのも面白そうだと思ったが、やると本格的に臍を曲げられてしまいそうなので、おとなしく居間で待つことにしたのであった。



 数分後、カイジはぶつくさ言いながらも、ちゃんと二個の握り飯を赤木に手渡してきた。
 大きなそれはずっしりと重く、アルミホイル越しに伝わる温もりが、じんわりとあたたかい。
「きっちり二十万。忘れんなよっ……!!」
 忙しなく時計を気にしながら言い捨てて、すぐさま玄関に向かおうとするカイジ。
 だが、赤木は咄嗟にその手を掴んで引き留めた。
「待て、カイジ」
「……っんだよ!? まだなにかーー、っ!?」
 苛立ちに任せてぐるりと振り返ったカイジの口の隙間に、赤木は掴んだ手の人差し指にくっついていたものを、つまみ上げてそっと押し込んでやる。
「飯粒、ついてたぜ」
 クスリと笑ってそう言うと、カイジの顔が一瞬で真っ赤に染まった。
「ありがとな。大切に食わせて貰うよ」
 飯粒を押し込んだ指で、労うように下唇をなぞってやれば、カイジはなぜか泣きそうな顔になり、乱暴に赤木に背を向けた。
「ちゃんと鍵、かけて出てって下さいよっ……!!」
 玄関先で振り返りもせずに怒鳴り、カイジは大きな音をたてて扉を閉めると、バタバタと走り去っていく。
 あたたかい握り飯を片手に、賑やかな家主の出勤を見送りながら、赤木はくっくっと可笑しそうに肩を震わせていた。











 午後七時、都内のとある料亭。
 日本最大の規模を誇る暴力団。その組の若頭である男は、目の前に座る代打ちの男を、呆気にとられた表情で眺めていた。
 それもそのはず。神域と呼ばれるその男は、控えの部屋の卓に就くなり、鞄から銀紙に包まれた手のひらサイズの塊をふたつ取り出して、目の前の卓の上に置いたのだ。

 ーーあれは、なんだ?

 もともと細い狐目をさらに眇めるようにして、若頭はそのゴツゴツと不恰好な物体の正体を見極めようとする。
 一般常識に照らして考えれば、ああいう形状・大きさでアルミホイルに包まれているものといえば、それはもう、握り飯以外の何物でもないはずなのだが、しかし相手は常識を悉く覆すと噂される、あの赤木しげるなのである。
 赤木に会うのはこれが初めてだったが、その神がかった闘牌の噂は麻雀好きの組長から耳にタコができるほど聞かされていたし、こうして当人を目の前にしてみると、少なくない修羅場を潜って若頭の地位に上り詰めた経験と勘が、その常人ならざる雰囲気に痛いほど反応するのがわかった。

 だからこそ、赤木がいきなり鞄から取り出した、どこからどう見ても握り飯にしか見えないその物体の正体を、どうにも判別しかねて若頭は内心、首を傾げているのだった。
 しかし、アルミホイルを剥がすベリベリという音にハッとして、慌てて赤木に声をかける。
「なにか、作らせましょうか?」
 銀紙の中身が握り飯であるならば、これほど不毛な質問もないだろうと思ったが、もしも神域の男の機嫌を損ねてしまうようなことがあっては取り返しがつかないので、とりあえず尋ねておく。
「いや、いい。これがあるからな」
 案の定、赤木はそう返事をした。
 猛禽のように鋭いその視線は、完全に目の前の包みにロックオンされたままだ。ホイルの隙間から白い米粒が覗き、やはりただの握り飯だったかと、胸を撫で下ろしたいようなツッコミを入れたくなるような、妙な気分になる。

 どこかうきうきした様子でホイルを剥がしている赤木から、若頭はなんとなく、そっと目を逸らした。
 見てはいけないもののような気がしたからだ。天才と称される中年の男が、遠足の弁当のような握り飯に、それこそ子供のように目を輝かせている、その有様を。

 誰が作ったものかなど、無論、知る由もない。赤木に妻や愛妾がいるという噂は聞いたことがなかったが、十中八九、女に持たされたものなのだろう。
 神域の男にこんな石みたいな握り飯を持たせておいて、それが許されているどころか、本人も嬉々としてそれにありついている。いったい、どんなにか良い女なのだろうと気になりはしたが、当然、そんなこと訊けるはずもなかった。

 それにしても、こちらの独断で食事を用意しなくて正解だったと、真新しい畳の縁に目を遣りつつ、若頭は思う。
 赤木しげるのワガママっぷりは裏社会では有名で、深夜の三時に無理やりふぐ刺しを作らせただとか、そのくせそれをたったのひと口しか食べなかっただとか、同業者のいろんな苦労話を聞かされている。
 だから男も、ある程度の無理難題を吹っかけられるのは覚悟の上で、可能な限り対応できるようにと、事前にいろいろ手を回しておいたのだ。
 しかし、この展開はなんというか、予想の遥か斜め上を行き過ぎていて、徒労となったここ数週間の奔走を思いガックリと項垂れそうになるのを、男は気合いだけでどうにか耐えているのだった。







 剥がした銀紙の隙間から覗く白い米粒に、赤木はやわらかく目を細めた。
 完全に剥がすと、きっちりとした三角形に握られた、大きめの握り飯が姿を現す。

 つやつやと美味そうに光るそれをすこし眺めてから、赤木はさっそく、それを口に運んだ。
 三角山のてっぺんに、意気揚々と齧りつく。

 相当な力を込めて握られたものらしい。ぎゅっと圧縮され、押し潰された米粒は、噛むと「歯ごたえ」というものを感じさせるくらい硬い。
 それに、ひどい塩分過多だ。この塩辛さは、加減を間違えたというレベルではない。噛むとジャリジャリと音がするのではないかと思えるほどで、明らかな作り手の故意が窺える。

 だが赤木は、美味とは対極に位置するようなその握り飯を、じっくりと味わうように食みながら、頬を緩ませたのだった。

 きっと、苛立ちに任せて渾身の力で握ったのだろう。わざと、大量の塩をつけた手で。
 腹癒せのつもりか。あるいは、二度と赤木がこんなワガママを言い出すことのないよう、金輪際口にしたくないと言わせるような出来を目指して作ったのかもしれない。

 居間で待っている間、キッチンでひとり歯を食いしばりながら、やり場のない焦りや苛立ちを米粒にぶつけるカイジの姿が目に浮かぶようで、赤木はつい、笑い出しそうになる。
 まるで塩の塊を食べているかのように硬く塩辛いそれを、ゆっくりと時間をかけ、赤木はすべて腹におさめた。
 
 具は入っていなかった。シンプルな塩むすびだ。
 これは赤木に対する嫌がらせではなく、単に具材となるようなものがなかっただけなのだろう。先に作られていたカイジ自身が食べる用の握り飯にも、具は入っていなさそうだった。
 文字どおり、口に糊するためだけに作られたもののようだ。

 指についた米粒をぺろりと舐め取ると、赤木はもう一個の包みの方にも手を伸ばした。
 鼻歌でも歌い出しそうな様子で銀紙を剥がし、現れた白むすびにふたたびパクリと齧りつく。

 見た目は、さっきのとまったく変わらない。だが、味はハッキリと違っていた。
 握り方が、多少やわらかくなっている。塩加減も、さっきのよりはずいぶんとマシだ。

 おそらく、こちらの方が後に握られたものなのだろうと、赤木には容易に想像できた。
 一個めを握ったあと、流石にやりすぎたかとちょっと後ろめたい気分になって、大人気ないことをしてしまったと、己を恥じるような気持ちも湧いてきたりして。
 一個めよりちょっとだけ手加減されている出来栄えに、そういうカイジの心の動きが見え隠れしているようで、赤木はますます愉快な気持ちになった。
 まるで、米粒といっしょに固くきつく握り込まれてしまったカイジの心そのものを喰らっているようで、ひと口ずつ丁寧に咀嚼して飲み込めば、単純で複雑な恋人の心情が、手に取るようにわかる気がした。

 ひどい味だった。
 でもそれ以上に、面白い味がした。慕わしい味がした。
 作ってくれた恋人の顔を、見たくなるような味だった。

 出がけにワガママ言って怒らせてでも、作らせた価値があったと赤木は思った。今日あのときでなくては駄目だった。今日あのとき握らせたからこその、この味なのだ。

 まるで大好物を味わう子供みたいに、ひと口、ひと口、大事そうに白米を噛んでは飲み込み、ついに二個目の塩むすびもぺろりと平らげてしまうと、赤木はとても満足そうに息を吐いた。

 残ったアルミホイルをくしゃくしゃに丸め、ぽつりと一言。
「ごちそうさま」
 今、この場にいない作り手の姿を思い浮かべながら呟くと、強面の若頭が顔を上げ、複雑な表情で赤木を見遣るのだった。



 後日。
「美味かったぜ。また、作ってくれ」
 塩むすび代を手渡しながら、朗らかに笑って赤木が言うと、予想の遥か斜め上を行くリアクションになんとも言えない表情を浮かべたあと、心底嫌そうにカイジは目許を引きつらせたのだった。





[*前へ][次へ#]

18/25ページ

[戻る]