歯磨き粉 過去拍手お礼 カイジさん視点





 歯磨き粉が切れた。

 ケツの方から細くきつく巻いて、みみっちく使い続けていたぺたんこのチューブが、遂に限界を迎えたのだ。

 どんなに力を込めて絞り出してもうんともすんとも言わなくなったそれをゴミ箱へ投げ捨て、洗面台の下から買い置きを取り出し、隣にいる少年に渡す。

 鱗状の白っぽい汚れの浮かぶ鏡を覗き込みながら、ゴミ箱行きになったチューブの、最後の一絞りが乗っかった歯ブラシを咥えた。

 昨夜は呑み過ぎた。我ながらひでえツラしてやがると思いながら、ほとんど惰性で歯ブラシを動かしていると、少年が鏡の中で顔を顰めた。

 歯ブラシを咥えたまま、もごもごとなにごとか呟いている。
「……あ?」
 発音が不明瞭でさっぱり聞き取れず、耳の遠いジジイみたいに眉を寄せて聞き返せば、少年は伝えるのを諦めたのか、黙って歯ブラシを動かし始めた。

 鏡の中に仏頂面を並べたまま、しばし歯を磨く不規則な音だけを重ねたあと、蛇口を捻って口をゆすぐ。

 タオルで口許を拭っていると、同じように嗽を終えた少年が顔を上げ、鏡の中でオレを見て
「まずい。前の方がよかった」
 と言った。

 一瞬首を傾げたが、すぐに新しい歯磨き粉のことを言っているのだとわかった。

 まずい、って。オレは唖然とする。
 食いもんじゃねえんだぞ。
 そうツッコもうとして、あまりのくだらなさに、やめた。

 コイツ、こんなことに頓着するヤツなのか?
 歯磨き粉の味なんかに。

 思わず鏡越しに相手を凝視していると、相手もオレをじっと見つめてくる。
 それから、鏡の中でオレの方に手を伸ばしてきたので、そちらに向かってタオルを差し出ながら、オレは口を開いた。

「……ガキくせえワガママ、」
 言うなよ。
 そう言おうとしたが、伸びてきた手にタオルではなく後頭部を掴んで引き寄せられたため、それは叶わなかった。

 強引に重ねられた唇の隙間から入り込んできた薄い舌は、味を確かめるみたいにざらりと歯列を撫で、すぐに離れていった。

「やっぱり、こっちの味のがいい」
 そう言ってニヤリと笑うクソガキの顔を、鏡越しではなく直接睨む。

 ……確かに、少年の口内に残る味は異様に粉っぽくて、ホテルのアメニティによくある、歯ブラシとセットになった小指サイズの歯磨き粉を彷彿させるものだった、けれども。

 でも、しょうがない。安かったのだから。たとえ安かろう悪かろうでも、オレにとっちゃ安価であることこそが正義だ。

 改めて、人んちの歯磨き粉にケチつけんなと窘めようとしたが、やはり少年の言葉に遮られてしまった。

「戻しておいて」猫のような目が細まる。「次、来るまでに」
 その一言で初めて、少年が今日発つことを知った。

 言いたいことだけ言ってしまうと、少年はあっさりとその場を離れていく。
 鏡の中にひとり取り残されたオレは、遠ざかる軽い足音を聞きながら、その場に立ち尽くしていた。

 馬鹿野郎。勝手なことばかり言いやがって。
 そのクセ、重要なことに限って、ギリギリになるまで一言も口にしやがらねえ。

 文句をぶつける相手がいなくなってしまったので、仕方なく、苦虫を噛み潰したような自分の顔と睨み合う。

 洗面台の上には、封を切ったばかりの、中身のたっぷり詰まった白いチューブ。

 この歯磨き粉は三本セットで安売りしてたから、まだストックが二本もある。
 使い終えるのは、まだまだ先のことになりそうだった。

 それでも。
 あの小生意気で命知らずの少年が、「次、来るまでに」と言ったから。
 本当に「次」があるなら、すくなくともあいつがそう思っているのなら、歯磨き粉のストックを無駄にまた一本、増やすくらいのことはしてしまいそうだった。

 虫歯にでもなっちまいそうな己の甘っちょろさに、オレはほとほとウンザリしてガックリと項垂れる。
 そして、ウンザリついでに、これからはもっと頻繁に歯を磨くようにしてみようなんて思ったのだった。

 早く「次」が来るように。
 そんな、甘っちょろい願望を込めて。







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