夏休み 学パロ いちゃいちゃ



 自宅の洗面台の前。
 ジーンズを履いた二本の足でカイジは立ち尽くし、険しい顔で鏡に映る自分の虚像を見つめていた。

 開け放った窓の外からは、短い命を燃やして鳴くアブラゼミの声。
 下ろしたての黒いTシャツが、流れる汗でじわじわと湿り気を帯びていくけれども、そんなことなど気にも留めず、カイジはひたすら己の姿を凝視している。

 目を眇めたり、首を傾げたりして矯めつ眇めつしつつ、肩の前にだらんと垂れた黒い髪に触れる。
 しっとりと汗で湿ったそれを摘んだり離したりしながら、鏡とにらめっこすること、約十分。
 弟の珍しい姿を目敏く発見した姉に、
「やだ〜なぁに、色気づいちゃって。まさか、好きな子とデート……?」
 などとおちょくられ、カイジは逃げるようにしてようやく鏡の前から離れると、ずっしりと重い鞄を引っ掴み、炎天下の中へ飛び出したのだった。





 カイジが待ち合わせの場所である公園に着くと、相手の姿が既にそこにあった。
 決まっていつも、先に着くのは自分なのに、珍しい。
 カイジは目を丸くしつつ、相手のもとに駆け寄る。
「アカギっ……!」
 声をかけると、相手は顔を上げてカイジの方を見た。

 相変わらず日に灼けない顔の中の、静かな双眸。
 抜けるように白い肌や髪に、海みたいな深いブルーのTシャツがよく似合っている。

「わり……、待ったか?」
 なんとなく視線をウロウロさせながらカイジが言うと、アカギは首を横に振って、
「珍しい」
 ぽつりと、そう言った。

 自分が相手に対して思っていたことをそっくりそのまま口に出され、カイジはちょっとビクッとする。
「……へ? なにが、」
「髪。いつもは結んでない」
 淡々とした返事に「……ああ、」とようやく合点がいったようにカイジは呟く。

「なんとなく……暑苦しいかな、って……思って」
 なぜか言い訳のように言いながら、カイジはいつもより涼しく感じる首裏に手をあてる。

 洗面所の鏡の前でも結ぶべきか否かだいぶ迷っていたのだが、姉のせいで急遽、予定よりかなり早く家を出ざるを得なくなってしまい、猛暑の中だらだらと歩くうちに頭から水を被ったような有様になってしまったので、結局コンビニでヘアゴムを買って纏めたのだ。

 ほとんど鏡を見もせずに、無造作に束ねただけの長い髪。
 滅多に括ることのないそこに、アカギの視線がひたと注がれるのを感じ、カイジは落ち着かない様子で微かに身じろいだ。
「へ……変、か?」
 といっても、ただ後ろでひとつに纏めただけ。そんなにおかしなことになるとも思えないが、それでもちゃんと鏡を確認すればよかったと後悔するカイジに、アカギはふたたび、首を横に振った。
「いや……、」
 悪戯っぽく笑い、続ける。
「気合い入れて来てくれたんだなって思って。……デートだから」
「でっ……!!」
 アカギの発言にカイジは目を見開き、一瞬言葉を失う。
「そ……いうんじゃ、ねぇだろっ……!! オレは、ただ宿題をっ……!!」
 カーッと赤くなりながら、コソコソと小声で咎め立てるカイジ。
 アカギはすました顔で「そう?」と言い、それからクスリと笑った。

「ああ……でも、そういうことなら、髪、結んできて正解だったかもね」
「……あ?」
 意味がわからない、と眉を寄せるカイジに、アカギはますます目を細め、
「あんたの濡れた髪なんか、目の前に晒されてるとさ。きっと勉強そっちのけで、ちょっかい出したくて堪らなくなっちまうだろうから」
 しゃあしゃあとそんなことを言って、固まってしまったカイジを余所に、目的地に向かってさっさと歩き出す。

 カイジはその後ろ姿を、憤怒とも羞恥ともつかないような変な顔でしばらく見つめたあと、
(……っの、スケベ……っ!)
 心の中で忌々しげに吐き捨てると、大量に噴き出してくる汗を手の甲で拭いつつ、アカギの背を追ったのだった。






 平日、昼下がりのコーヒーショップは、普段ならガラガラに空いているところだが、今は夏休み中ということもあり、親子連れや学生たちでそれなりに賑わっていた。

 アイスコーヒーをふたつ注文し、二階に上がって四人がけの席につくと、カイジはさっそくテーブルの上に問題集を広げる。
「結構、頑張ってるじゃない」
 化学の問題集のページを捲りながら、アカギが呟く。
 その声には抑揚がないが、アカギが世辞や気休めなど口にしないとわかっているカイジには、淡々としたその言葉が掛け値無しの褒め言葉のように聞こえ、素直に嬉しく思うのだった。

「あ……でもこのページ丸々、さっぱりだった……」
「どこ?」
「ここ」と、カイジが数学の問題集の、まっさらなページを広げて見せると、アカギは対面から軽く身を乗り出してカイジの手許を覗き込んでくる。
「……ッ」
 自然と縮まる距離に息を飲み、カイジは思わずアカギから目を逸らした。

 お互い私服で会うのは、もちろんこれが初めてではない。
 それなのに、夏休み中だというだけで、どうしてこんなにも恋人の私服姿が、眩しく目に映るのだろう。

 今年はなかなか互いの予定が合わなくて、夏期休暇中に会うのは今日が初めて。
 夏休みに入ってから、すでに三週間が経過している。それがそっくりそのまま、ふたりの会えなかった時間に相当するわけで。

 ここまで長い間、お互い顔も見ずに過ごしたのは、付き合い出してから初めてのことで、アカギの姿が眩しく見えるのはもちろんそのせいもあるのだろうけれど、それだけでは説明がつかないような気も、カイジにはしていた。

 じゃあなんで、聞かれても、うまく説明できる気がしない。
 むしろ、自分が教えてほしいくらいだ。

 他の季節では、きっとこうはならない。
 夏の日差しと、蝉の声。
 学生の夏休み特有の、どことなく浮ついたようなテンションと雰囲気が、まるで魔法みたいに、相手にのぼせ上がらせているのかもしれない……

「……さん。カイジさん。……聞いてる?」
「……っ、はいっ……!?」

 ぼんやりと考えに耽っていたカイジがビクリと顔を上げると、至近距離にアカギの怪訝そうな顔があって、慌ててまた目を背ける。

「な、んの……話だっけ?」
 わけもなくドギマギしながら薄笑いを取り繕うカイジを、アカギはニコリともせずじっと見つめる。
「集中しなよ。卒業がかかってるんだろ?」
「わ、悪い……」
 ため息まじりに嗜められ、カイジはちょっとションボリした。

 確かに、この(アカギに)勉強(を教わる)会を企画したのは他ならぬ自分であるのに、言い出しっぺがうわの空だなんて、あんまりである。

 素直に反省の色を示して気まずげにうつむくカイジに、再度、アカギから声がかけられた。
「だから、この問題は、……、」
 カチカチと、シャーペンをノックする音。
 幾分か和らいだ声音にカイジがホッとしていると、手許の問題集に白い手が伸びてきた。

 問題文の下、まっさらな部分に、その手はさらさらと数学の公式を書いていく。
 しかも、すべての記号や文字を、カイジから見て正しい向きになるようにーーつまり、上下左右を反転させて、書いているのだ。

 流れるように淀みなく動くその手と、整った文字の羅列を感心したように眺めていたカイジだったが、唐突にふと、あることに気がついた。

「お前、またーー」
 思わずといった風に口を開き、考えるより先に手が伸びる。

 よく日に灼けた手の、熱い掌で包み込むようそっと触れると、伸びやかにシャーペンを走らせていたアカギの白い手が、ぴたりと止まった。
「ちゃんと教えてやっただろ。また、持ち方ヘンになってるぞ」
 母親のように言いながら、カイジはアカギの曲がった人差し指をゆっくりと伸ばしていく。

 カイジの記憶する限り、教えてやってからはちゃんと正しい持ち方に修正されていたはずだった。
 ……なのに、なぜ急に、もとに戻ってしまったのだろう?

 不思議に思いつつも、こうして鉛筆の持ち方を教えてやった梅雨のある日の記憶が、今の光景に重なるようにしてよみがえり、ふって湧いた懐かしさにカイジの頬が緩んでいく。

 そうーーあの頃、ふたりはまだ二年生で、同じクラスで。
 お互いのことなんて、なんにも知らなかった。

「なんか、思い出すな……あのときのこと」
「あのとき?」
「そう……」
 ひんやりとしたアカギの体温を心地よく思いながら、カイジはまるで思い出そのものを慈しんで撫でるような仕草で、アカギの手を包み込む。

「覚えてねえか? 二年のとき、雨の日に、学校の教室でさ。ちょうど今みたいに、勉強をーー」
 そこまで言ったところで、カイジの舌が凍りついた。

「カイジさん?」
 アカギに名前を呼ばれるが、そんなもの耳に入っていないみたいに、カイジは剥き出しの首筋まで、みるみるうちに真っ赤に染め上げる。
 慌てて自分の手を引っ込めようとするも、いきなり伸びてきた白い左手に強く指を掴まれ、それを阻止された。
「ばっ……馬鹿、離せって……っ」
 あたふたするカイジの様子を嘲笑うかのように、その指は、アカギによってより強く握り込まれてしまう。
「ちょうど、今みたいにふたりで勉強してーー、それから? なに、したんだっけ?」
 こみ上げる笑いを、隠そうともしない声。
 弾かれたようにカイジが顔を上げると、テーブルの向こうで意地の悪い恋人が、可笑しそうに肩を震わせていた。

 大きく見開いた目をつり上げ、カイジは全力でアカギの手を乱暴に振り払う。
「お前っ……さてはわざと……っ!」
 間違ったシャーペンの持ち方をしてみせたのは、カイジにあの時と同じお節介を焼かせるためーー
 つまりは、自分の手に触れさせるためだったのだと、ようやくカイジは気がついて、悔しそうにアカギを睨め付けた。

 邪険に振り払われた手を悠々と引っ込め、アカギは恋人の憤怒の形相など歯牙にもかけず、涼しい顔で口角をつり上げる。
「だってさ。あんたオレのこと、ちょっとも見やしないじゃない」
 恨めしそうな三白眼と視線が絡み、アカギは鋭い目を細める。
「せっかくのデートなのに、それはあんまりだな、って思って」
「だからっ……! デート……じゃねえっての……っ!」
 ぶつぶつと文句を言いながら、カイジは傍らのドリンクカップに手を伸ばす。
 急上昇した体温と、うるさい心臓を落ち着かせるかのように、冷たいコーヒーをストローで勢いよく吸い上げるカイジを、アカギは愉快そうな目で眺めている。

 あの頃はまだ、こんなムカつく顔するヤツだなんて、知らなかった。
 ぶすくれた表情のまま、カイジはアカギを見る。

 あの雨の日から、一年とちょっと。なんにも変わっていないように見えて、アカギはすこしだけ、でも確実に、表情豊かになった。
 その一方で、輪郭や体つきは鋭く研ぎ澄まされて、もともと高校生らしくないヤツだったけど、なんというか、ますます大人っぽくなった。
 制服よりもラフな格好が、いっそうそれを際立たせている。

 見ているだけで上気してしまいそうなそれらの変化を、真正面からまざまざと見せつけられることになり、相手の思惑に見事に嵌められてしまった悔しさで、カイジはうっすら涙目になりながらストローを噛んだ。
「ごちゃごちゃ無駄口叩いてねぇで、続きっ……! 早く、教えろよっ……!」
 教わる立場とも思えないような横柄さでカイジが促すと、アカギは笑みを深めてシャーペンをくるりと回し、慣れた風に正しく持ち直すと、数式の続きを書き始めたのだった。






 
 関数やら方程式やら定理やらとひたすら格闘すること、数時間。
 分厚い数学の問題集にようやく終わりが見えてきたところで、カイジは深くため息をつき、大きく伸びをした。
「そろそろ、休憩しようか」
 時計を見ながらアカギが言い、カイジは疲れた顔のまま、大きく頷く。
 アイスコーヒーはとっくの昔にカラになっており、氷が溶けて出来たわずかな水を、ドリンクカップから音を立てて啜るカイジを見て、アカギは立ち上がった。
「飲み物とか、買ってくる」
「あ……、オレも行く」
 そう言って怠そうに立ち上がろうとするカイジを、アカギは手で制した。
「慣れない頭使って、疲れてんだろ。休んでな。後半戦も、頑張らなきゃいけねぇんだろ?」
『慣れない頭使って』は余計だとムッとしつつも、カイジはアカギの心遣いを素直にありがたく思う。

 冷たそうな見た目を裏切って、アカギは意外に、こういうやさしいとこがある。
 前に一度そう褒めたとき、「下心があるからだよ」とかなんとか不穏なことを口走っていたので、カイジはそれ以来二度とアカギのやさしさについて言及しなくなったのだけれども、でもきっと、それだけじゃないとカイジは心の中で思っている。

 たぶん、非常にわかりにくいだけで、アカギはもともと、やさしい奴なのだ。
 超然とした雰囲気と数々の噂のせいで、なんとなくおっかない奴だとしか周囲に認識されていないであろう恋人の、意外な面。
 それを知ることのできる人間なんてきっとそう多くなくて、カイジはちょっと、優越感を擽られるのだった。

 それじゃあアカギの厚意に甘えようかと、財布を渡そうとすると、それにもかぶりを振られる。
「いいよ。奢る」
「え〜……なんか、悪ぃな……」
 と、頭を掻きつつも、長期休暇の解放感による散財のせいで懐事情の厳しいカイジは、すぐに「そんじゃ、お言葉に甘えて……」と言って、ヘラリと笑った。
「あ……でも、メニュー……」
 このカフェには、各席にメニューなど置かれておらず、レジカウンターで確認するしかない。
 その上、ドリンクひとつとってもやたら複雑な名前が多いし、やっぱりレジまで行こうか……などと考え込んでいるカイジに、アカギはクスリと笑う。
「あんたの欲しがりそうなものくらい、だいたいわかるよ。……いいから、座ってな」
 自信ありげなアカギの口調にカイジは目を丸くしたあと、疑わしげな顔になった。
「……本当か? もし外しても、金なんて……」
「大丈夫だって」
 カイジのセコい発言を途中で遮り、アカギはふと、なにかを閃いたような顔をする。
「もし、オレが買ってきたものが、あんたのお気に召したなら……」
「?」
 怪訝そうに眉を寄せるカイジを見下ろし、アカギはニヤリと笑うと、
「その時は、ごほうび、貰おうかな」
 意味深な言葉を言い置いて、カイジのツッコミが飛んでくる前に、さっさとその場を後にしてレジへと向かったのだった。






 数分後。
「お待たせ」
 と、いう言葉とともに目の前のテーブルに置かれたものを、食い入るようにしてカイジは見つめていた。

 透明なガラスの器の中に、山型に大きく盛られた、ふわふわの雪みたいな白い氷。
 そのてっぺんから氷が染まるほどたっぷりとかけられているのは、真っ赤ないちごシロップ。
 さらに山のふもとには、なめらかな乳白色の丸いアイスクリームが圧倒的存在感を放っていて、その隣には半分に切られた生のいちごが、氷の山の周りを取り囲むように、ぐるりと並べられていた。

 クラスメートの女子なら真っ先に携帯のカメラを向けそうなその物体を前にした瞬間、明らかに目の色の変わったカイジを見て、アカギは口端をつり上げる。
「どうやら、お気に召したみたいだな」
 アカギの言葉にハッとして、なんとなく気恥ずかしくなったカイジは慌てて気の無い風を取り繕おうとするが、それでもその黒い両目は、真っ赤なかき氷に釘付けになっていた。

 照明の光を受けて宝石みたいな輝きを放つそれに負けないくらい、きらきらと瞳を輝かせてかき氷を見つめるカイジに、アカギは笑って言ってやる。
「早く食わねえと、溶けちまうぜ?」
 その言葉にゴクリと唾を飲み、カイジはそろそろとスプーンに手を伸ばしたが、そこでハタとあることに気づき、動きを止める。
「あのさ……もしかしてコレ、結構高いんじゃねぇか……?」
 チェーン店とはいえ、学生にとってはコーヒー一杯でもそこそこ値の張るこの店で、おそらくは期間限定メニューの、こんなに豪華なかき氷。
 タダで勉強を教わっておいて、その上こんなものまで奢ってもらうだなんてさすがに悪い気がしてきて、カイジは躊躇いがちにアカギの顔を窺う。

 おあずけを喰らっている犬のような、上目遣いの表情を見て、アカギはちょっと苦笑した。
「いいから、変な遠慮せず食いなよ。あんたの為に、買ってきたんだから」
 それを聞いたカイジは赤い顔でこくりと頷き、
「そ、それじゃ……いただきます。」
 口籠るようにそう言って、スプーンを持ち上げた。

 まず、スプーンの裏の部分を使い、高い山をぺたぺたと均してから、サク、と音をたてて赤い氷を掬い上げ、いそいそと口へ運ぶ。
「くぅ〜〜…!」
 口中に広がる至福の冷たさに、カイジはぎゅっと目を瞑り、子供みたいに快哉の声を上げた。

 冷たい氷は淡雪のように一瞬で溶け、甘酸っぱい苺の味と香りが、味蕾と鼻腔を刺激する。
 真っ赤なシロップはとても濃厚な味がして、とろとろに煮詰められたいちごの食感が、はっきりと残っていた。

 当たり前だが、祭りや縁日で売っている紙カップに入ったかき氷とは、まったくべつの食べ物であると言っても過言ではない。
 ついさっきまでアカギに気を使って躊躇していたのが嘘のように、カイジは一心不乱に甘いデザートを食べ進める。
「うまい?」
 対面からアカギがそう問いかけると、カイジは目だけでアカギを見て、こくこくと頷いてみせた。

 その様子にアカギは目を細め、
「カイジさん。オレにも、ひとくち」
 そう言って、軽く身を乗り出した。

「……!?」
 ごくん、といちご味の氷を飲み下し、カイジは目を白黒させる。
「い、いいぜ。ほら……」
 慌ててスプーンをアカギに手渡そうとするも、
「そうじゃないって。わかってるでしょ……」
 意図的に潜められた声でそう言われ、カイジはぐっと言葉を詰まらせた。

「あ……っ、アホかっ……!! こんな人目につく場所でっ……!!」
 きょろきょろと辺りを見回しながら、カイジは小声でアカギに怒鳴る。
 が、実際、ふたりの周りにはうまい具合に他の客の姿はなく、当然、ふたりの方に注目している者など、誰ひとりとしていない。

「…………」
「誰も、見てないよ」
 すました顔でしれっとそんなことを言われ、カイジはふたたび言葉に詰まった。

 同じ学校の生徒にふたりでいるところを見られないようにと、わざわざ街からすこし離れた場所にあるこのカフェを選んだのは、他ならぬカイジである。
 しかしだからこそ、人の少なさを逆手に取っての大胆な要求は、カイジにとってまさに晴天の霹靂で、激しい動揺を禁じ得ない。

「た、確かに、見られて……は、ねえけどっ……!! でも、こういうのはっ……」
「ごほうび」
「は?」
「貰うって言った」
 淡々と短く切り返され、そういえばさっきコイツそんなこと言ってたっけ、と、苦々しくカイジは思い出す。

「ごほうび……って、お前なあっ……」
「ほら、早く。ひとくちだけでいいから」
 さらに身を乗り出して促され、カイジは変な汗をかいて辟易しつつも、引き下がる様子など微塵もなさそうなアカギの顔を見て、渋々スプーンで赤い氷を掬った。

 このかき氷の礼だと思えば、安いもんじゃねえか。我慢、我慢……
 そう、必死に己に言い聞かせつつ、スプーンの先をアカギの前に差し向ける。
「ほら、早く、口開けろ……」
 舌打ちとともにカイジが命令すると、うすく整った唇がわずかに開かれる。

 その隙間にスプーンを無造作に押し込み、アカギが口を閉じるのも待たず、一瞬でサッと手を引っ込めて、カイジは素早く周りを見回した。

 幸い……というか、当然ながら誰ひとりとしてふたりの方など見ておらず、ホッと安堵の息をつくカイジを尻目に、アカギは大きく顔を顰め、
「甘い」
 ばっさりと一言、そう切り捨てた。

「おっ……、前なあっ……!!」
 こみ上げる羞恥と怒りで顔を真っ赤にし、テーブルの上で握りしめた拳をぷるぷると震わせるカイジに、アカギはニヤリと笑う。
「クク……冗談。うまかったよ」
「嘘つけっ……! 口直ししてんじゃねえかっ……!!」
 追加で頼んだアイスコーヒーにすぐさま口をつけているのをカイジが指摘すると、アカギは可笑しそうに笑いながら、ストローから唇を離した。
「そんなことより、早いとこ食っちまいなよ。宿題、頑張って終わらすんだろ?」
 はぐらかそうとしているのは明白だが、確かに、休憩にあまり時間を費やしてしまっては本末転倒である。
 悔しげにスプーンを噛みながら、カイジがアカギの顔を睨みつけると、視線に気づいたアカギは、口角を持ち上げて悠々と笑んでみせた。

 前言撤回。
 コイツのやさしさなんて、やっぱり下心に基づくものでしかないのかもしれない……

 カイジはそう考え直しつつ、甘いいちご味の氷とともに、口中に次々湧いて出てくる文句を、黙々と飲み下していったのだった。







 すべての宿題にだいたいの目処がつき、ふたりがコーヒーショップを出るころには、すでに陽が傾きかけていた。
 仕事終わりにはまだ早い時間帯だが、街を歩く人の姿は徐々に増えつつある。

(疲れた……)
 酷使しすぎた頭を抱え、ゾンビのようにふらふらとした足取りで歩くカイジ。
 だが、疲労感の割に気持ちはスッキリとしていて、心も軽い。
 その理由は言わずもがな、今日一日で宿題がかなり片付いたからである。

 もちろん、万年落第生のカイジがここまでできたのは、ひとえにアカギのサポートのお陰であると言えよう。
 カイジひとりだったら、たとえ今日の倍の時間、ひたすら問題集とにらめっこしていたとしても、ここまで進めることなどできなかったに違いない。

「その……、ありがとな、アカギ」
 夕陽に照らし出される恋人の横顔を見ながら、カイジはぽつりと礼を言う。
 なんだか改まって礼を言うのが照れ臭くて、声がちいさくなってしまったけれど、アカギの耳にはちゃんと届いたようで、カイジの方を見てふっと笑った。
「まぁ……久々のデートだったのに、なんにもできなかったってのが、地味にストレスだったけどね」
「だから、デートじゃ……」
 アカギの軽口に三たびツッコもうとしたカイジだったが、不意に響き渡った無機質なチャイムの音に、口を噤んだ。

 そのあとに続く、明るい女性の声のアナウンス。
 人々の喧騒に紛れて非常に聞き取りにくいそれに耳を傾けると、どうやら数時間後にこの近辺で行われる、花火大会の案内らしかった。

「花火大会、あるんだ」
 ひとりごとのように呟いたあと、アカギはカイジの方を見る。
「行きたい? カイジさん」
「え……っ」
 平らな声で問われ、カイジは面喰らった。
「だってお前、人混みあんまり好きじゃねえだろ」
「そうだけど。でも、あんたが行きたいんなら、付き合うよ」
 どうする? と。
 なんでもないことのようにさらっと訊かれ、カイジは思わず、まじまじとアカギの顔に見入ってしまう。

 アカギは相変わらずのポーカーフェイスだけれども、それでも、きっと自分のために言ってくれているのだということが伝わってきて、カイジはほんのりと嬉しくなった。

 緩みそうになる頬を引き締めつつ、カイジは静かに首を横に振る。
「いや……いいよ。オレも、人混み得意ってわけじゃねえし。それに、同じ学校の連中に、見られちまうかもしれねえしな」
 カイジの言葉に、アカギは細い眉を上げる。
「相変わらずだね、あんたも。オレたちが一緒に行動してたって、不良同士、つるんでるようにしか見えないって」
 半ば呆れたようにアカギはそう言ったが、「まぁ……あんたが行く気ないなら、べつにいいけど」と呟いて、あっさりと引き下がった。

 カイジは密かに唇を引き結び、にわかにその表情に緊張を走らせる。
 花火に、まったく興味がないわけじゃない。
 ただ、この日にアカギと会うことが決まったときから、密かに考えていたことが、カイジにはあったのだ。

 歩くペースをやや遅め、カイジは斜め後ろからアカギの姿を見つめる。
 数度。
 気持ちを落ち着けるように深呼吸してから、夕間暮れの生ぬるい空気に乗せ、さりげない風を装って、カイジは切り出した。

「あのさ……今日の礼、ってわけじゃ、ねえんだけどさ……」
「ん?」

 軽く振り返るアカギの横顔。
 橙の陽が深く陰影を刻むその顔からわずかに目を背けつつ、カイジは早口でボソボソと、ひとりごとのように続ける。

「あんまり大きくは見えないんだけど……、つうかぜんぜんショボくて、母ちゃんも姉ちゃんも直接観に行くって言ってるくらいなんだけど……
 そんなんでも良けりゃ、花火、オレの部屋の窓からもーー」

 くどくどと持って回った言い方をしていたカイジの声は、しかしそこで途切れ、アカギのすこし後ろをだらだらと歩いていた足も、ぴたりと止まった。


 気がつけば、周りには黄昏時の街を行く人々の姿。
 その多くは、これから祭りへ向かうのであろう。色取り取りの浴衣を着た、おそらくは他校の女子たちを始め、すれ違う人々のほとんどが、いつの間にかアカギの姿に注目しているようだった。

 今にも誰かから声がかかりそうな中を、さして気にした風もなく、アカギは平然と歩いていく。
 その後ろ姿を見て、カイジはなんとなく、面白くないような気分になった。

 本人には死んでも言わないけれど、カイジがアカギと一緒に人の多い場所へ行きたがらないのは、これも大きな理由のひとつだった。
 校内ではアカギに告白する女子の数はだいぶ減ってきてはいるけれども、外だともっと多くの人々の目がある。
 だからこうなることなんて、容易に予想できるのだ。

 立ち止まったまま、カイジはひとつ、ちいさく息をつく。
 それから、人々の隙間に呑まれ、離れていこうとするアカギの背中を睨むように見据えたまま、おもむろに、髪を後ろで結わえているゴムに指を引っ掛け、するりと抜き取った。

 アカギはカイジが立ち止まっていることに、きっとまだ気がついていない。
 だけど、振り向かせるのなんて、簡単なこと。
 たぶん、自分以外の誰にもできはしない。ここにいて、アカギを遠巻きに見つめている人々には、誰ひとりだって、できはしないだろう。

 そこまで考えて、カイジはちょっと苦笑する。
 アカギは変わった。でも、自分も変わったと思う。
 アカギにいつか言われたとおり、いや、その時よりもずっとずっと、遥かに傲慢になってしまった。
 でも、切るように鋭い視線が自分だけに注がれるのを想像すると、妙な高揚感と充足感で、カイジの心は確かに満たされていくのだ。

 髪から抜き取った黒いヘアゴムを、立てた右手の親指に引っ掛け、左手でつまんで後ろに引く。
 片目を眇め、ゴムを強く張ったままの親指で、前を行く白い後ろ頭に照準を定めた。

 周りの喧騒が、わずかに遠くなる。
 たぶん、どんなに狙ったってまず当たらない。相手がアカギだから。
 でも、必ず気づいて振り返るだろう。確信がある。

 いったい、どんな顔をして振り返るだろう。
 ちょっと驚いたみたいな顔、するだろうか。

「ちょっかいを出したくて堪らなくなる」だっけ?
 そんなことを言われた髪を、今ここで解いてみせた意味、こいつは考えるだろうか。

 カイジの口端が、静かにつり上がっていく。

 恋人が振り返ったら、今度こそちゃんと誘おう。
 人混みに揉まれなくても、花火を見られる場所。
 ふたりきりになれる、その特等席に。

 なにも知らない白い後ろ姿に目を細め、カイジは左手をパッと離す。
 人々のざわめきと、真夏の黄昏時の生ぬるい空気を裂き、黒いゴムはまっすぐに、アカギに向かって放たれた。





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