夢か現か アカギが殴られる話 短文


『久しぶり』と、いつもの挨拶代わりの言葉を吐く暇もなく、いきなり左の頬に飛んできた衝撃を、アカギは咄嗟にきつく足を踏ん張って耐えた。
 骨と骨の当たる音がして、目の前がチカッと白く光ったあと、やや時間をおいて元通りになった視界の中に、拳を固く握り締めて仁王立ちしている恋人の姿を捉える。
 その姿を見て『殴られた』のだと知る。
 女なら平手で済むところなのかもしれないが、アカギの恋人は男なのだ。『張る』だなんて生易しいやり方ではなく、容赦なく拳が飛んでくる。

 一拍遅れて、ジンジンと熱を伴った痛みがやってきた。
 痛む己の頬に触れることもなく、アカギはたった今自分を殴った恋人の、固く結ばれたままの右手をじっと見つめていた。
 岩同士がぶつかり合うような、あの音の鈍さからして、自分を殴ったその右の拳も相当痛んでいるに違いない。
 それが証拠に、恋人の吊り上がった大きな瞳には、うっすら涙の膜が張っている。
 おそらくは生理的なものなのだろうとぼんやり思いながら、その涙をアカギが眺めていると、黒い目で瞬きしながら顔を覗き込まれた。
「痛いか?」
 常になく淡々とした声で問われ、アカギは肩を竦めて素直に答える。
「……まぁね」
「じゃあ、現実ってことだな。夢じゃないかって思ったんだ。おまえが訪ねてくるなんて、あんまり珍しいから」
 恋人は、悪びれもせずそう言ってみせる。
 ふざけたことを。夢か現か確かめるため、いきなり殴ったとでもいうのだろうか。それなら自分の頬でも抓ってみればいいものを。
 腫れた頬を確かめるように撫で、アカギは空気が抜けるような笑いをふっと漏らした。
「ひでえな、カイジさん……出会い頭に暴力なんざ」
「なにも言わずにいなくなって、忘れた頃に訪ねてくるお前よりはマシだと思うがな」
 突き放すように一笑する、その目の奥に確かな怒りの色を見て取って、アカギはその笑みを苦いものに変える。
 カイジの言葉は言わば、稀にしか訪れない自分への当てつけなのだ。そんなことはアカギにもわかりきっていた。

 何の前触れもなく、都合よく近くへ立ち寄ったときだけ訪ね、居たいだけ居て、ある日突然ひと言も告げずに去る。
 そういうアカギの習性を、カイジは理解してくれている。
 ……が、だからといって、なにもかも広い心で許してくれるわけじゃないのだ。
 カイジはアカギの恋人なわけだから、怒るときはこうしてちゃんと怒る。
 今回の原因はなんだろう、とアカギは思う。前にここへ身を寄せていたとき、食事の約束をすっぽかしてそのままアパートを出て行ったから? 前回の訪れから、ずいぶんと間が開いてしまったから?
 思い当たるフシが多過ぎて、アカギにはわからない。ついでにそんなことが恋人の『怒る理由』になることも、アカギにはまったく理解できないのだった。
 その点で、問答無用で殴りかかってくるカイジよりも、非道いのはむしろ自分の方だということを、アカギは重々自覚している。

 本来なら、殴ることで溜飲の下がる類の話ではない筈だ。
 けれども、カイジの怒りを理解できないアカギには、心から謝ることなどできはしない。
 カイジはアカギのそういう鈍さもすべてわかっていて、だから殴ることでチャラにしてくれている、ともいえた。
 だからこそ、避けられたはずのカイジの拳を、アカギは敢えて左頬で受け止めたのだ。
 
 カイジの目に張った水の膜は、なかなか消えない。
 ひょっとするとそれは、拳の痛みのせいじゃないのかもしれないなとアカギは思って、それから、カイジに会うのがひどく久しぶりなのだということを、今さらながら思い出した。
 すると利かん気の強そうなその面差しも殴られた痛みも、急に懐かしく感じられてきて、アカギは未だ自分を殴った形のまま、固く結ばれて体の横に垂らされているカイジの右手に、そっと触れた。
「……なぁ。夢か現か確かめるんなら、もっと、いいやり方があるぜ」
 ぽつりとそう呟くアカギの顔を、カイジは瞬きもせずにじっと見て、それから顎を上げて笑った。
「ふうん? どんなだ? ……やってみせろよ」
 挑発的なその言葉を最後まで聞かぬうち、アカギはカイジの右手を握って自分の側へ引くと、まるで拳で殴るみたいな乱暴さで、その唇へと口づけた。






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