棘 しげる視点




 その人とは、雀荘で出会った。

 普通の人間と違うってことは、すぐにわかった。頬と指の傷痕を見て、ほかの連中は気圧されたみたいだったが、オレはそんなものよりも、その人の"目"に釘付けになっていた。
 きっと、少なくない修羅場を潜り抜けてきたに違いない。
 大きく見開かれたその三白眼は、オレの見たことのない世界を数多く見てきたのだと一目でわかった。その場で見ず知らずの輩たち相手に打った生ぬるい打ち筋が、その人の本質だなんてオレはこれっぽっちも思わなかった。

 だから、大敗を喫し肩を落としてその場を去ろうとする後ろ姿に声をかけた。その人を知るために。裡に眠っているであろう本質を見極めるために。
 だが、話しかけたときに誤算が生じた。
 ひとたび声を聞いたら、もっと話していたくなった。会話を続けていたら、家についていきたくなった。とにかく、その人の傍にいたくなったのだ。

 こんな風になるなんて、予想だにしていなかった。偶然出会ったその人に、オレはまったく虚を突かれたかのように、気付けば心奪われていたのだ。
 己に心というものがあるという実感すら乏しかったというのに、まさしくそれは奪われるものなのだということを、オレは体感として知ることになった。

 それまでまったく経験がなかったけれど、誰かに心を奪われるというのは、思ったよりも悪い気分がするものではなかった。
 でも、自分ばかり奪われっぱなしなのは、なんとなく癪だったから、オレの方からも、ひとつ奪ってやろうと思ったのだ。

 
 雀荘から出たところの、狭くて薄暗い階段の踊り場。
 不意打ちのように重ねた唇は、ひどく荒れ、かさついていた。
 やわらかいのに、触れると棘の立つような感触。
 まるで、その人の心の性質をうつしとったかのようのようだった。渡世人にはおよそ不必要であるほどのやさしさと、それを不器用に覆い隠すような言葉や態度の棘。
 博徒としての本質にしか興味を抱かなかったはずのオレの心を奪ったそれらに、直接唇で触れているみたいで、軽い気持ちで仕掛けたことなのに、溺れてしまいそうになる。
 頭の芯が熱っぽくなって、もっと深く……と舌を伸ばしかけたとき、体を引き剥がされた。
 オレに奪われた唇を手の甲で隠すようにして、その人はひどく驚いた顔でオレを凝視していた。見開かれた目がオレを見ている、最初に会った瞬間から心奪われたその目。
 動揺に震える声で、なんでこんなことを、と訊かれたから、ちょっとだけ考えて、
「なんとなく。あんたからなにか奪ってやりたいと、思って」
 冗談半分でそう答えたら、その人は怪訝そうに眉を寄せて、そうか、と呟いた。
 その人にばれないように、オレはひっそりと笑った。難しそうに考え込むような表情。
 オレの言葉をどう受け取るべきか、生真面目に考えあぐねているのだろう。その顔が見られただけで、オレは満足だった。悪戯に成功した子供みたいに。
 だから「またね」と言って、その場を立ち去ろうとした。ひどく混乱しているだろうその人に、明確な答えも与えないまま。
 しかしその時、後ろから強く腕を引かれた。
 振り返ったらその人の顔がすぐ傍にあって、面喰らっているオレの唇に、今さっき触れたばかりの、あの棘の立つような感触が押しつけられた。
 それはすぐに離れていき、その人はちょっと赤くなった顔で、それでもオレのことをまっすぐに見ていた。
 目と目が合って、オレは思わず、なんで、って訊いた。我ながら、ひどく間の抜けた声が出た。
「……奪われたから、奪い返してやったんだ。ざまあみろ」
 ひどく緊張してるみたいな、ぎこちない笑顔でそう言うと、その人はオレの傍を通り過ぎ、さっさと階段を降りていってしまった。

 追わなくては。そう思いながら、足が動かずにオレはその場に立ち尽くす。

『奪われた』と言ったのは、唇のことだろうか。
 それとも……、もっと別のもの? たとえばオレがあんたに奪われてしまったものを、実はあんたもオレに奪われていたりするのだろうか。

 わからなくて、さっきのあの人みたいに考え込みそうになる。たったの数十秒で、もののみごとに形勢は逆転してしまった。
 唇にそっと手を遣る。指で触ると、あの人の唇が触れた部分だけ、じんわりと熱を持ったように感じられた。
 チクリとした微かな痛みを伴うその熱はやがて全身に回り、オレの心臓の鼓動を速めたようだった。

 油断した。
 オレは忘れていたのだ。
 棘には毒がつきものなのだということ。




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