雨の中 謎シリアス


 取るに足らないようなこの関係が変わってしまうのを、心のどこかで忌避しているのかもしれない。


「アカギ」
 自販機から釣り銭を取り出しているところに声をかけられて、アカギは振り返る。
 外灯の下、長い黒髪の男が自分を見つめていた。
「こんばんは、カイジさん」
 ポケットに釣り銭と、買ったタバコをねじ込みながら、アカギはすこしだけ口角を持ち上げる。
「久しぶり」
 アカギの言葉に、カイジは黙ったまま頷いた。
 深く被ったキャップのつばが、うつむきがちな目許の表情を隠している。
 ごく短い沈黙のあと、カイジは無理やり会話の接ぎ穂を紡ぎ出すかのように問う。
「代打ちか?」
「終わったとこ」
「そっか……」
「あんたは?」
「バイト……オレも、終わったとこ」
「そう」
 会話はそこでふつりと途切れ、また静寂が訪れる。
 互いに長く続けられる話のネタなど持ち合わせてなどいないが、会話がなくなってしんとするのを気まずいなどとも思わない。
 ただ、間が開くとじりじりするような感覚があって、それが相手にも伝わっているのがわかるから、据わりが悪いというか、落ち着かない気がするのだった。

 それじゃ、また。
 そう言って立ち去ろうと、アカギが口を開くより先に、
「雨」
 カイジがぼそりと呟いた。
「寄ってけば……雨、降りそうだし」
 そう言って、カイジはより深くうつむく。
 カイジの住まいは、ここからそう遠くない距離にあるのだ。
 しかし、自分で提案しておきながら、本人は迷っているようにも見えた。アカギが黙っていると、カイジは反応を窺うようにそろそろと顔を上げる。
 奇妙な沈黙の中、目と目が合う。アカギが頷くと、カイジはほっとしたような後悔しているような、複雑な顔をした。


 ふたりで帰路を行く途中、小雨が降り出し、急ぎ足でアパートへ駆け込んだが、少々濡れてしまった。
 カイジはアカギにタオルを投げて寄越す。
「シャワー、使っていいぜ」
 脱いだキャップを拭きながら、カイジが言う。アカギは首を横に振った。
 肩についた雫を拭いながら、アカギは部屋を見渡す。
 以前、訪れたときとなにも変わらない部屋。狭く、マルボロのにおいがしみついていて、壁がヤニ焼けで茶色く変色している。
 男のひとり暮らしの割に、いつ来てもそこそこ片付いているこの部屋の、あちこちに家主の生活が顔を覗かせている。テーブルに置きっ放しの漫画雑誌。その隣に置いてある、薄汚れた灰皿。薄水色の羽の、古ぼけた扇風機。

 カイジはアカギを残して台所に引っ込んでいき、ビールの缶を両手に戻ってきた。
「ん」
 差し出された缶を、アカギは黙って受け取る。
 プルトップを上げながら、カイジはテレビを点けた。
 流行の音楽のPVを、ランキング形式でひたすら流し続けているチャンネルに合わせ、リモコンを置いてビールを啜る。

 卓袱台を挟んでふたり、ぼんやりとテレビを眺めていた。
 ビールがなくなると、タバコに手を伸ばす。
 話すことなどなにもなくて、それでも互いが互いを意識しているのが、空気を通して伝わってくる。
 じりじりと焦れるような空気。だけどお互い、気がつかないフリをする。
 見る間に増えていく吸い殻の量が、ふたりの苦心をそのまま表していた。


 ときどきアカギが塒を求め、カイジのもとを訪れる。幾許かの金と引き換えに、一夜の宿を提供する。ふたりはただ、それだけの関係のはずだった。
 しかし、いつの頃からだろうか。
 ふたりにとって、この部屋でただふたりきりでいるということが、とても困難になってしまったのだった。
 惹かれ合っているという自覚もなく、気がつけば相手のことが気になって仕方がなくなっていた。
 ほんのすこし、肩が触れあっただけでも崩れ、べつのものに変わってしまいそうな、危ういバランスで成り立っている今の関係。些細な会話でさえ、それが変化する引き金になりかねないから、ふたりは極端に口を噤むようになった。

 取るに足らないようなこの関係が、変わってしまうのを忌避しているのかもしれない。
 アカギは誰かを特別にするような生き方をしてこなかったし、自分にとって枷となる存在をこの先作るつもりもなかった。カイジにしても、アカギの生き方と自分の情の強さはわかっているから、これ以上の進展があっても苦しいだけだとわかっている。
 お互い、その先を欲しているのは確かなのに、理性でブレーキをかけて立ち竦んでいるような状態なのだった。


 飲んだ酒が回って瞼が重くなってきて、カイジは時計を見る。
 時刻は三時を回っていた。雨は次第に激しさを増しているようで、テレビを消すと叩きつけるような雨礫の音が静かな部屋をいっぱいに満たした。
 立ち上がり、カイジはカーテンの隙間から窓の外を睨む。
「ひでえな……予報じゃ、明日の朝まで降り続くって言ってたけど」
 そう呟き、カイジはアカギの方を見る。
「泊まってくんだろ?」
 なんでもないことのように投げかけられた言葉。だからこそ、アカギもなんでもない風に頷いてみせる。
 隠した感情の上を上滑りするようなやり取り。それでも進展を望まない限り、ふたりはそれを続けざるを得ないのだった。



 灯りを消した部屋で、カイジはベッドに、アカギは床に敷かれたうすい布団に寝転がる。
 古い扇風機がカタカタと首を振り、蒸し暑い部屋の空気を申し訳程度に攪拌している。
 雨音は激しくなる一方だ。薄い壁から天井から、ひどい雑音が響いてくる。
 アカギとカイジはお互い背を向けたまま、眠ることができずにいる。それは雨音のせいでも、寝苦しく澱んだ部屋の熱気のせいでもない。
 同じ部屋の中に相手がいる、それだけのことでもう、眠れない。逃がしようもなく募る気持ちは思慕を通り越して、もはや苦痛に近かった。


 灯りを消して一時間ほど経った頃、アカギはそっと起き上がる。
 壁の方を向いているカイジの背中を数秒、眺めたあと、立ち上がって部屋の隅に置いてある鞄を手に取った。
 中から札を数枚抜き出して、テーブルの上に置き、もう一度カイジの背を見つめてから、玄関へと向かった。

 靴を履き、ドアを開けると雨音が一気に部屋へなだれ込んでくる。
 静かにドアを閉め、アカギは外へ出た。
 痛みすら感じるほど激しい大粒の雨に打たれながら、アカギは歩き出す。
 行くあてなどない。近くの公園かどこかで、夜明かしするつもりだった。
 カイジの存在がすぐ傍にあるあの部屋にいるより、その方が数倍マシだなどと考えて、アカギは苦く笑う。
 とんだ臆病者になってしまったものだ。望んでいるものが大き過ぎて、手に入れたら自身が揺らいでしまいそうで、踏み出すのを躊躇しているなんて。

 雨は冷たく、全身をあっという間に濡らしていく。
 このまま、気持ちまですっかり冷めてしまえばいいのに。
 振り返って出てきた部屋の扉を見上げ、アカギはそんなことを思った。



 玄関のドアが静かに閉まる音を聞き届けて、カイジは軽くため息をついた。
 寝付けないのはカイジも同じだった。壁を見つめながら、アカギが起き出して部屋を出ていく気配や、衣擦れの音にじっと耳を欹てていた。
 時折、アカギの視線が自分の方へ注がれるのさえ、背中で感じていた。起き上がって声をかけたくなるのを、カイジは唇を噛んで耐え抜いた。
 追わない。そう心に固く決めたのだ。こんなひどい雨の中、出て行くことを選んだアカギの気持ちが、カイジには痛いほどわかったから。
 それでもドアの向こう、アカギの足音が遠ざかっていくのを聞いたカイジは、体を起こさずにはいられなかった。
 ベッドから降りた足が勝手に窓辺へと向かう。カーテンの隙間から覗く窓を横殴りの雨が叩き、外の景色を潤ませている。どうやら風も出てきたようだ。
 カイジは目を凝らして外を見る。深夜の街は息を潜めているように真っ暗だ。ぽつりぽつりと灯る街灯も、豪雨の中心許なげにしている。
 その暗い道を、傘もささずに歩いていくアカギの後ろ姿を見つけて、カイジは思わず身を乗り出す。
 窓に額をつけるようにして、その姿を目で追う。息を吐くたび、ガラスが白く曇った。
 追わない。そう心に固く決めたのだ。額をつけた窓が冷たく、頭を冷やしてくれそうな気がした。
 このまま、気持ちまですっかり冷めてしまえばいいのに。
 カイジは目を閉じ、深呼吸する。それからそっと瞼を持ち上げて、息を飲んで固まった。

 外にいる男が、立ち止まってカイジの部屋の方を見上げている。
 距離は遠いし、雨が降っているし、部屋の灯りだって点けていない。
 けれど暗がりの中、確かに男と目が合った気がした。
 その瞬間、煩い雨音は耳から遠ざかり、カイジは静寂の中でアカギと見つめ合っていた。
 相手の表情すら、よくわからない。だけど、目を逸らすことなどできなかった。


 しばらく窓を見上げたあと、何事もなかったかのようにアカギはふたたびカイジに背を向けて歩き出す。
 激しい雨の音が耳に戻ってきて、カイジはようやく我に返った。心臓の鼓動がかなり早い。寝間着の胸のあたりを、知らず強く握り締めた。

 いったいどんな顔をして、アカギはこの部屋を見ていたのだろう。自分が見つめていることに、気がついていたのだろうか?

 それが気になって仕方なく、カイジは窓から離れ、まっすぐ玄関へと向かう。追わない、そう決めていたはずなのに、いてもたってもいられない。体がひとりでに動いてしまう。今の出来事で完全に、制御できなくなってしまった。

 玄関の脇に立てかけてある黒い傘を掴むと、カイジは外へ飛び出す。
 瞬間、耳に溢れかえる、鼓膜を突き破るような雨音。
 吹き込んだ雨で濡れた階段を駆け下り、傘を開いて一歩踏み出すと、強い向かい風に煽られて進行を妨げられる。
 暴風雨といっても過言ではない天候の中、細い骨で組み上げられた傘は非力だった。なんども裏返りそうになるそれをカイジは畳み、土砂降りの中、暗い夜道を行く男を追うため、歯を食いしばって駆け出した。





「アカギっ……!!」
 悲鳴のような声で呼び掛けられ、アカギは立ち止まる。
 振り返ると、自分と同じように頭から濡れそぼったカイジが、息を切らせて立っていた。
 図らずもそこは、さっきふたりが偶然出会ったタバコの自販機の前だった。

 肩で息をするカイジは、見たこともない苦しげな表情をしていた。追い詰められ、逃げ場を失って切羽詰まっているような表情。相手から見たら自分も似たような顔をしているのだろうかと、アカギはぼんやり思い、すこし苦笑する。

 濡れた前髪の隙間から睨むようにアカギを見て、カイジは言った。
「お前は、馬鹿だ……」
 吐き棄てるような言葉を受け、アカギも皮肉げに唇を歪めて言い返す。
「あんたに言われたくないよ」

 馬鹿だ、こんな雨の中出ていくなんて。
 追いかけてしまった自分も、たいがい馬鹿だけど。

 馬鹿だ、こんな雨の中追っかけてくるなんて。
 振り向いてしまった自分も、たいがい馬鹿だけど。

 目が合うとすぐに、どちらともなく近づいて、景色が白く煙るほどの豪雨の中、貪るように長いキスをする。
 街の音はすべて、地を打つ雨粒の烈しさに掻き消される。聞こえるのは互いの息遣いだけ。他にはなにも聞こえない。
 自販機の白い光が浮かび上がらせる相手の表情を見て、こんなにも欲していたのだということを知る。
 火は点いてしまい、もはやどんな豪雨でも消せない。
 体はしとどに濡れているのに、心は飢え、乾いている。
 退路は断たれ、二度と引き返すことのできない関係へと転がり落ちていく。
 圧倒的な諦念とすこしの高揚の中、ふたりはより強く求め合うように、互いを強く抱き寄せるのだった。







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