願い事・3


 神社の裏手にある雑木林を、少年に先導されてカイジは歩く。
 そこは結構な勾配の斜面になっているのに、少年はしっぽを優雅に揺らしながら、歩きにくそうな沓でさくさくと登っていく。
 カイジはふうふう言いながら、やっとの思いで少年の後をついていなかければならなかった。

 おまけに、この獣道を照らす灯りなどあるはずもなく、前ばかり見ていると木の根に足を取られそうになるし、かといって下ばかりに注意を向けていると、今度は鞭のようにしなる枝に顔面を引っかかれる羽目になる。

 少年はときおり振り返っては、歩くのに四苦八苦するカイジを見て、呆れたように眉を上げる。
「だらしねえな、おっさん。もっときびきび歩けねえのかよ」
「うるせえ……クソガキ、お前が歩くの速すぎなんだよ……」
 そんな応酬をしながらひたすら歩き、己の顔からぽたぽたと滴り落ちる汗が地面に吸い込まれていくのにも見飽きた頃、
「……ついたよ」
 前を行く少年がカイジを振り返り、ようやくそう言った。

 ぜえぜえいいながらカイジが少年に追いつくと、目の前が急に開けた。
 そこはだだっ広い空き地のようになっていて、眼下には神社の屋根、点々と並ぶ提灯の赤い光、そして遠くの方に繁華街の夜景が一望できる場所だった。
 そしてなにより、夜空に散りばめられた夏の星々。周りにいっさい灯りがないからこそ見られるような、満点の星空が視界いっぱいに広がっていた。
「おぉー……すげぇな。こんな場所があったなんて」
 苦しい呼吸も忘れ、カイジは思わず感嘆する。

 少年はつかつかと歩き、空き地の真ん中に鎮座する平べったく大きな石に腰掛けると、カイジを振り返って『座れ』というように自分の隣をぽんぽんと叩いた。
 指示通りカイジが隣に腰掛けると、少年はふいに手を伸ばし、カイジの両目を左手で覆ってしまう。
「あっ、おい……なにすんだよ。せっかくの夜景が見えねえじゃねえか」
 すぐさま抗議の声を上げるカイジだったが、「夜景は逃げやしねえよ。すぐ終わるから、黙ってじっとしてな」と少年に言われ、不審に思いながらも言われたとおりに口を噤む。

 すると、ものの数秒で、まるで目にちいさな火が灯るようにぽうっと温かくなるのをカイジは感じた。
 それは決して不快ではなかったが、今まで体験したことのない不思議な感覚だった。

 目を覆うときと同じくらい唐突に、少年はカイジの目の上から手を退ける。
 それと同時に不思議な温かさも引いてゆき、カイジはなんどか瞬きしてから、少年の方を見る。
「おい……なんだったんだよ、今のは」
 すると、少年はスッと腕を延べてある方向を指さした。
 白い指が指し示す先を見て、カイジは驚きに目を見開く。

 少年が指さす先に見えるのは、今さっきまでふたりがいた神社。
 その社の屋根の辺りから、無数の黄色い光の粒が、まるで蛍のように輝き、ふよふよと漂いながら、ゆっくりと空へ昇っていくのだ。

 あまりにも現実離れした光景に、思わず己の目を強く擦るカイジに向かって、少年がぽつりと言う。
「あれが、今日参拝した人間たちの願いだよ」
「願い……?」
 カイジが訊き返すと、少年はこくりと頷く。
「オレがひとつひとつ、すべての願いをふるいにかけて、残ったものだけああして天に昇るんだ。天界でまた審査があって、本当に叶えられるかどうかはそこで決まるんだけど」
 淡々とした声で紡がれる少年の言葉を聞きながら、カイジの目は完全に、眼下の光景に奪われていた。

 点々とした丸い光はよく見ると、さらにちいさな光の粒が無数に連なってできており、そのひとつひとつの光の昇る速さが違うため、刻一刻と形を変えて流星のようにきらきら光る尾を引いているように見える。

 カイジは思わずため息をついた。
「きれいだな……」
 人の願いというのは、かくも美しく輝くものなのか。

 そこでふと思いついて、カイジは少年に訊いてみる。
「ひょっとすると、オレのかけた願いも、あの中に混ざってるのか?」
 カイジの問いかけに、少年は首を横に振り、
「あんたの願いは、ここにある」
 そう言って、狩衣の左の袂をそっと引く。
 すると、そこからちょうど鶏の卵くらいの大きさの、柔らかな丸い光がふわりと転がり出てきた。
 そのまま宙に浮かび、ふよふよと天へ昇っていこうとするその光を、少年は両手で包み込むようにして捕らえる。
「えっ……それが、オレの……」
 少年の指の隙間から漏れ出す淡い光に、カイジの目は釘付けになる。
 自分のかけた願い事が、可視化されて目の前にあるというのは、なんとも奇妙な感じがした。

「あんた、妙なこと願っただろ」
 カイジの願いを包み込む自分の手を見つめたまま、少年はぼそりと言う。
「妙なこと?」
 カイジは首を傾げて自分の願い事を思い出し、ああ、と納得したように頷く。
「ギャンブルとか、金とか……確かに、神社で真面目に願掛けするような内容じゃなかったかもな」
 願い事を知られていたのがなんとなく気恥ずかしく、カイジは頬を掻いて苦笑する。
 だが、少年はまたしても首を横に振った。
「違う。それじゃなくて、……最後の」
 最後の? 少年の赤い瞳にじっと見つめられ、カイジは記憶を手繰り寄せる。

 自分の願い事。
 ギャンブル勝てますように。大金が手に入りますように。あの悪徳企業が破滅しますように。
 それから……

 それから、少年が一日でも早く天界に戻れますように、と、カイジは最後に強く願ったのだ。

「いや、だって……お前、一応神さまな訳だし。早く天界に戻れるのが、お前にとっていちばんいいことなんじゃないかと思って……」
 カイジが言うと、少年は「ふん」と馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「オレのことを『オレに』願掛けしてどうするんだよ。本当に間抜けだな、あんた。しかも、あんなにシケた額の賽銭で」
「うっ……」
 カイジは言葉に詰まる。言われてみれば、確かにそうだ。
 だけど、カイジはカイジなりに、少年のため良かれと思って、願いをかけたのだ。
 それなのに、少年はなんだかものすごく不機嫌そうな顔をしていて、カイジは戸惑う。

 少年はもう一度「ふん」と鼻を鳴らし、カイジの願い事を包んだ両手をわずかに開く。
 そして、なにを思ったか、その手を顔に近づけると、大きな口を開けて掌中の光をその中へと押し込んだ。
「!? お前、なにして……っ!?」
 予想外の行動に慌てるカイジを余所に、少年はカイジの願い事を完全に口の中へと収め、もそもそと口を動かしたあと、ごくん、と喉を鳴らして丸飲みしてしまう。
 カイジはあんぐりと口を開けて、少年の細い喉が上下するのを見つめていた。
(こ、こいつ……食いやがった!? オレの願い事……)
 空になった手をパンパンと叩き、しれっとした顔で居住まいを正す少年に、カイジは恐る恐る訊いてみる。
「お、オレの、願い事……は?」
「叶わないよ。オレが今、食っちまったから」
「……」

 カイジの願い事は、目の前の神さまによって今、却下されたのだ。
 つまりは、そういうことなのだろう。

 舌を出してぺろりと唇を舐める少年の、顔と腹の辺りを交互に見て、カイジはちょっとしょんぼりする。
 トンチンカンな自分の願い事など、選ばれなくて当然なのかもしれない。
 それはいい。少年の言うとおり、願掛けにはそぐわない内容だったのだから、仕方ない。
 だけどカイジはただ、自分の願い事が、あの美しい光たちのように、空へと昇っていく姿を、ちょっとだけ見てみたかったような気がするのだ。
 
 残念そうな顔のカイジを、少年は腕組みして睨むように見る。
「……オレは、帰らないからな」
「……へ?」
 思いがけぬ言葉に、カイジはぽかんとする。
「あんたがどんなに迷惑してようが、オレを邪魔だって思ってようが、知らねえ。
 オレは自分の気の済むまで、あんたのとこにいる。そう決めたんだ。だから諦めるんだな、神頼みなんて意味がない」
 一息でそう言い切って、少年は軽く息を吸う。
 一方、カイジは呆気に取られて固まっていた。

 迷惑? そんなこと、思ってねえよ。
 早く帰れますようにって願ったのは、ただ本当に、お前のためを思って……

 そこでカイジは、少年が自分の気持ちを誤解していることにようやく気がついた。

 相変わらず、ご機嫌斜めな様子でツンとしている少年に、カイジは思わず吹き出しそうになる。
 拗ねているのだ、神さまのくせに。
 仰々しい衣裳に身を包み、狐の耳としっぽまで生えているくせに、その横顔はまるで人間の子供そのもので、カイジは心がゆるくほどけていくのを感じた。

 思ってねえよ、邪魔だなんて。
 そう、少年に声をかけようとカイジが口を開きかけた、ちょうどその時。

 ドン、と空気の底を重く打ち鳴らすような音が響き、街の向こう、遠く星々の燦めく空に、真っ赤な大輪の花が咲いた。

「花火……」

 ぽつりとカイジが呟くのと同時に、今度は黄色の花火が上がる。
「川向こうの街の花火大会も、毎年この日だって決まってるんだ。神社からは見辛いけど、ここからなら見える」
 少年が喋っている間にも、花火は次から次へと上がる。

 赤や緑、黄色にオレンジ。
 菊の花のように大きく開くものや、柳のように尾を引いて流れ落ちるもの。
 派手な破裂音とともに、色とりどりのちいさな輪が、群れをなして花開くもの。

 さまざまな光と、輝く砂のような星々が彩る夜空。
 眼下からは蛍のようないくつものやさしい灯りが、ふわふわと天へ舞い上がっていく。

 言葉も忘れ、カイジは幻想的なその光景に見入る。
 これが、少年が見せてやると言った『いいもの』だったのだ。
 油断すると光の渦に呑み込まれてしまいそうで、知らず息さえ潜めてしまうほどの圧倒的な美しさ。
 目の前の光景に魅了され、目を丸くしているカイジの横顔を、少年は横目でチラリと見て、視線を前に戻す。

 カイジと少年は花火が終わるまで、無言でただそこに、ふたりで並んで座っていた。







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