心配 カイジさんが面倒くさい


「この、くそ馬鹿野郎っ……!!」

 玄関先の空気を震わせ、響く怒号。
 一喝されたアカギは無表情のまま瞬きし、肩で息をするカイジを見た。
「いきなりご挨拶だな……なに怒ってんの?」
「なにって……わかんねえのかよっ!?」
 本気で理解していないような様子のアカギに、カイジは眦をきりきりと吊り上げる。
「お前がっ……、そんな大怪我して帰ってくるからだろうがっ……!!」
 耳鳴りがするほどの大声で怒鳴りつけられ、アカギは顔を顰めながら自分の体に視線を落とす。
「べつに……たいしたことないじゃない」

 ぼそぼそと呟くアカギの体は、血と埃と泥まみれだった。
 黒いダウンジャケットを着ているというのに、一目で分かるほどの尋常じゃない汚れ方をしていて、しかも腕や肩などあちこち切り裂かれてやわらかい羽が飛び出している。
 他人の返り血ともアカギ自身の血ともつかないものが、その羽さえも赤黒く染め上げていた。

 冬の装いをしているため、体に負っている傷がどれほどのものか見て取ることは困難だが、腫れた頬や目尻口許の生々しい傷や痣、ひどく乱れた髪の様子から決して『たいしたことない』で片づけられるような怪我ではないだろう。
「たいしたことねぇわけあるかっ! なんでお前はいっつもそうなんだっ……!!」
 アカギの冷静さに反比例するように、カイジはどんどんヒートアップしていく。
 アカギは軽くため息をつき、カイジに問いかけた。
「だから……、なんでカイジさんがそんなに怒るの? 喧嘩も怪我もオレの問題で、あんたにはなにも関係ないでしょ?」
 ドライな言葉は、口の中を切っているせいでいつにも増して抑揚がなく、そのため本人にそのつもりがなくても、周りの耳にはひどく非情に響く。
「関係ない……だと……?」
 低く呟いたのちカイジは押し黙り、みるみるうちにその顔を憤怒で真っ赤に染め上げた。
「もういいっ……! 出てけっ……! お前のツラなんて、二度と見たくねえっ……!!」
「カイジさ」
「出てけよっ……!!」
 怒髪天を突くとはまさにこのことかと思われるほどの形相で、カイジは声を荒げる。
 肩が怒りに大きく震えるさまは、憐れさすら漂うほどで、恐れはなかったけれども、家主が出て行けと言うのだから仕方がないと、アカギは肩を竦めて踵を返した。
「またね、カイジさん」
 それから振り返りもせずに外に出て、今しがたノックしたばかりのドアを閉める。






 さて、今夜はどこで夜を明かそうか。ぼんやりと考えながらアカギは歩き始めた。
 たいそう冷え込んできたから、塒を探す前にどこかで一杯やりたい気分なのだが、いかんせんこのナリである。
 どうしたものか、などと他人事のように考えていると、背後からバタバタと大きな足音が迫ってきた。
「おい、待てコラっ……!!」
 アカギが振り返ると、カイジがたいそう慌てた様子で追いかけてきたのだった。
 階段の直前でアカギが立ち止まると、カイジはアカギに追いつき、ぜえぜえと息を切らす。
「ほ、本当に出てくヤツがあるかっ、そんな大怪我でっ……! 空気読めっ、こンの大バカヤロウっ……!!」
 一瞬、カイジが喚いていることの意味がわからず、アカギは呆気にとられてしまった。
 カイジは相変わらず怒っているようだったが、さっきの玄関先での遣り取りの時とは違い、驚きや焦燥が怒りを凌駕しているようで、声や表情からはかなり力が抜け、迫力が削がれてしまっていた。

 信じられないとでも言いたげな顔つきでアカギを睨むカイジは、薄い寝間着のまま上着さえ羽織らず、裸足でスニーカーの踵を潰して走ってきたようだ。
 いかにも『取るものも取りあえず』といった、寒々しいその姿をまじまじと見ながら、アカギは思った。
(面倒くせぇ人だな……)
 つまり、『出てけ』というのはカイジの本心でなく、むしろその真逆だったらしい。
 そんなことわかるはずがない。あんなに怒って『顔も見たくねぇ』なんて言ったくせに、本当に帰ろうとすると必死に追いかけてきて、また怒るなんて。
 じゃああの場はどうするのが正解だったのだ、と、ややうんざりしながらアカギは思う。
『空気読め』というひと言でカイジはそれを片づけてしまうけれども、アカギには意味不明だし、なんだか理不尽な気がしてならなかった。

 首筋から頬にかけて、カイジは燃えるように真っ赤になっていた。
 それは全力で走ってきたのと、怒りと、凍てつくような寒さのせいだろうけれども、きっとそれらだけが原因でもない。
 言いたいことを言い尽くして、居丈高な態度でアカギの前に仁王立ちなどしているが、どこか虚勢を張っているように見えてならないのは、きっとアカギの思い過ごしではないだろう。

 本当に面倒くさいと思いつつ、もう言葉でなにかを伝えるのも億劫になり、アカギは一歩、カイジの方へ踏み出す。
 そして、ビクッと後ずさりしそうになるカイジの肩を掴むと、唇を重ねた。

 唐突だったので、ぶつかるように荒々しい口づけになった。
 思いっきり身を固くしたあと、カイジはアカギを突き飛ばそうとしたが、怪我のことを思い出し、無理やり顔を背けて口づけを解いた。
「っ……なに、をっ……」
 大きく見開かれたその目を見つめながら、アカギは言う。
「空気。読んでみた」
 意外な言葉にカイジはぽかんとして、それから唇を真一文字に引き結ぶと、羞恥と怒りが半分ずつ混ざったような、複雑そうな表情で吐き捨てた。
「このバカ、もう、ホントに出てけっ……!」
「はいはい、出ていかないよ」
「い、いなしてんじゃねえっ……! オレは本気だからなっ……!」
 目を三角にするカイジだが、本心はもう明白である。
 なんてちょろい、と半ば呆れ、アカギはつい笑ってしまいそうになる。
「関係ないなんて言って、悪かったよ」
「……」
 アカギが素直に謝ると、カイジは口をへの字に曲げたまま、そっぽを向いてしまう。
 だが、その横顔はどこかホッとしているようで、表向きのむっつりとした表情は、明らかに取り繕われたもののようだった。
 アカギは思う。
 この人の、この単純さはどうだ。この人相手に空気なんて読む必要、まったくないじゃないか。
「この、笑ってんじゃねぇっ……!」
 堪えきれずにとうとう笑いを漏らしてしまったアカギに、カイジはカッと頬を赤くしてその肩を小突く。
 もちろん、アカギの怪我を配慮して力は加減されていたけれども、アカギはほんの出来心で、わざと顔を顰めて背を丸め、必要以上に痛がる素振りをしてみせた。
 すると、カイジはサッと顔色を変え、慌ててアカギに近寄ってくる。
「悪ぃ、傷に障ったか? 大丈夫……」
 言いながら覗き込んできた顔を見上げ、アカギはニヤリと笑う。
 こんな臭い演技に引っかかるなんて、やっぱりなんというか、ちょろすぎる。仮にも鉄火打ちなのに、こんなんで大丈夫なのか、この人。
 あんなに怒るほど、オレのことを、ずいぶん心配してくれているようだけど、
「あんたのがずっと心配だよ、カイジさん」
 呆れ混じりにそう言って、アカギは間近できょとんとしているその顔に顔を近づけ、今度はそっと唇を掠め取るのだった。






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