恋人つなぎ



「……カイジさん?」

 己の名を呼ぶ声で、カイジがハッと目を覚ますと、常夜灯の中、見慣れた木目の天井を背負ってアカギがカイジの顔を覗き込んでいた。
 一瞬の混乱ののち、自分が今まで夢の中にいたのだと悟る。大きく目を見開いたまま、深くため息をつこうとしたが、呼吸がままならず、カイジは噎せてしまった。
 ベッドを軋ませて激しく咳き込むカイジを、アカギは黙って静かに見下ろしていた。

 一頻りの苦悶ののちようやく落ち着くと、カイジは今し方まで見ていた夢の内容を反芻しようと試みてみる。しかし、なにかとてつもなく嫌な夢だったということ以外、子細はどうしても思い出すことができなかった。
 そのことにホッとしながら、ふと胸の上に置かれた己の右手を見てみると、その手はアカギの左手と、掌を合わせてしっかり繋がれていた。
 交互に絡まった指の先が、白くなるほどに強く握り締めている。
 短く切った爪が、アカギの手の甲に食い込んでいた。
 悪い、と謝り、慌てて離そうとしたが、眠りの余韻のせいかすこしも声が出ず、その上どうしたことか、手の力をほんのわずか緩めることもできなかった。
 それどころか、離そうと腐心すればするほど、その意思に反発するようにカイジの手はアカギの手を深く握り込んでいく。合わさった掌が異様なほど熱く湿っていて、カイジはこの寒い部屋の中、自分が汗だくになっていたことに目覚めてからようやく気がついた。

 絡んだ指をなんとか解こうと、数分のあいだ試行錯誤してみたが、無駄だった。どんなことをしても繋がれた手は解くことができず、軽く擡げていた頭を枕に沈め、カイジはため息をつく。
 アカギの手にはすこしも力が入っていないようなので、たぶん、夢うつつのうちにカイジがアカギの手を握り、胸の上へ引き寄せたのだろう。それできっと、アカギを起こしてしまったのだ。
 カイジは子供のような自分を恥じ、うすら赤くなった。いくら夢見が悪かったとはいえ、大の男がするようなことではないと思った。相手も同じ年頃の男だという事実が、尚のこと羞恥を煽った。

 まるで必死に縋るような手。カイジ自身はもうずいぶん冷静さを取り戻しているのに、その右手だけが怖い夢に怯える稚い子供のように憐れで、異様だった。
 不思議なことに未だ、カイジは右手だけうまく力を抜くことができず、その指は容赦なくアカギの手に食い込み赤い爪痕を残していたが、アカギはなにも気にしていないように、平板にも見えるいつも通りの表情を崩さなかった。
「大丈夫?」
 問いかけられて、声はまだ出そうになかったから、カイジは黙ったままひとつ、頷く。
 アカギの声は静かなのに、不思議と強く鼓膜を打ち、波紋を描いて体の奥底まで届くようで、快さにカイジはホッと息をつく。
 そういえば、悪夢の内容はまるで覚えていないけれども、眠りを破ったのが自分の名を呼ぶアカギの声だったことだけは、カイジはハッキリと覚えていた。
「そう。よかった」
 淡々と抑揚のない声で、かけられたたったそれだけの言葉。
 それを聞いたカイジはなぜか、不覚にも涙腺が緩みかけてしまい、慌てる。
 夢見の悪さが尾を引いて、感傷的になっているのかもしれなかった。
 そっけのない口ぶりだけれど、だからこそ沁みるように感じられた。
 こんなにも強く手を握られたままで、痛くないはずがないのに、アカギはそのことについて、なにも言わなかった。夢に魘されて、誰かの手を力いっぱい握るなんてガキみたいだと、いつもなら真っ先にからかってきそうなのに、それもしない。
 そこにはアカギなりの気遣いが滲んでいるように思われてならず、それがまたカイジの涙を誘った。こんなことで泣きそうになっているばつの悪さに、カイジは軽く唇を噛んだ。
 薄闇の中だが、互いの表情は判別できる距離にいるため、泣きそうになっていることはアカギにばれているのかもしれなかった。
「……悪い」
 やっと絞り出すことのできた掠れ声で、カイジは謝った。ばつの悪さを消すことができなくて、斜め下を向いたまま、ぼそぼそと独りごちるように。
 ようやく調子を取り戻しつつあるカイジに、アカギはゆるく口端を持ち上げる。
 そして、相変わらずぎゅっと握りしめられたままの左手を、カイジに見せつけるように揺らした。
「なかなか、情熱的じゃない。この繋ぎ方、世間じゃなんて呼ばれてるか知ってる?」
「……」
 カイジは黙ったままアカギを睨みつける。顔が赤くなっていることまでは、暗がりだからバレていないと思いたい。
 固く結ばれたままのふたりの手は、カイジの方から一方的に繋がれているようなもので、しかも悲壮なほど力が籠もっていて、恋人同士がするような甘い繋ぎ方では決してなかったけれども、
「せっかくこんな風に手を繋いでるわけだし、カイジさん。恋人らしいこと、してもいい?」
 アカギが冗談みたいにそう言って、瞳を覗き込んでくるので、ふて腐れたような顔をしながらも、カイジは幼子のようにこくりと頷いた。

 アカギの顔が近づいて、唇が重なる。
 乾いた感触は、ほんのすこし、触れただけで離れていく。啄むようになんどもなんども繰り返されて、もどかしさにカイジの息が上がっていった。
 ふたりの間で、繋がれたままの手の温度だけが上がっていくのが、カイジのもどかしさに拍車をかけた。

 何度目かの口づけのあと、アカギが離れていく直前、カイジは両の腕をその首の後ろに回し、強く引き寄せた。
 アカギは驚いた顔をしていたが、カイジもまた驚いていた。
「どうして、手、離せたんだろうね」
 長いキスを終え、互いの吐息が唇にかかる距離でアカギは囁く。
「心当たり、ある?」
「……さぁ。知らねぇ」
 カイジはぶっきらぼうに答えたが、言えるはずがなかったのだ。
「抱きしめたい」と強く思ったら、どんなことをしても離すことのできなかったはずの右手が、あっさりとアカギの左手から離れてしまったこと。
 こんなことは死んでも言えないと、カイジはひとり汗をかいていたが、アカギはそんなカイジを面白そうに眺めていた。
「なんだよ」
「べつに?」
 アカギはそう言ったが、憎たらしい含み笑いを見るに、本当はすべてわかりきっているようだった。
 赤い顔で睨みつけるカイジにクスリと笑い、アカギは自由になった左手を、握ったり開いたりする。
「もうしばらく、オレはあのままでも構わなかったけどね」
 アカギがそんな軽口を叩くので、カイジは白い頬を両手で挟んで引き寄せ、黙らせたのだった。







[*前へ][次へ#]

30/35ページ