冬眠する動物 ただの日常話



 朝晩の寒さが増し、秋も更けてきた今日このごろ。
 野山の獣は冬篭もりの準備をするため、餌と塒を探している時期なのだが、それに先駆けて早くも冬眠しようとしている動物が、ここに一匹、いる。



 安普請のアパートの一室の、これまた安物のベッドの上。
 こんもりとまるく膨らんだ掛け布団に目を落とし、アカギは口を開いた。
「あんた、今からバイトだって言ってなかったっけ」
 すると、ベッドの上の塊がもそもそと動き、布団の下からまず黒い頭が、次いで傷のある無骨な手がヌッと現れ、枕許に置いてある携帯電話を引き寄せる。
 寝ぼけ眼でだるそうにディスプレイの表示を眺めたあと、黒い頭の主はぼそりと一言、
「寒ぃ……」
 と掠れた声で呟き、そのまま動かなくなった。


 毎年この時期になると見られるこの光景は、アカギにとって、もはや晩秋の風物詩となりつつある。
 自らの体温でぬくぬくとした巣穴に潜り込んでいるのはヒト科ヒト属の動物で、名を伊藤開司、通称クズという生き物である。

 アカギはこのクズと、いわば恋人同士という関係なのだが、真面目に働いたことなどほとんどないアカギでさえ、ときどき呆れてしまうほど自堕落な生態を持っているのが、この伊藤開司なのである。

 今夜、カイジが遅番のシフトであるという話は聞いていた。
 偶然、アカギも同じ時間から代打ちがあって、だからカイジの設定した携帯のアラームで起き、シャワーを浴びて身支度を整えていたのだが、その間もカイジはいっさい起き上がる気配すら見せぬまま、数十分が経過して今に至る。



 黙ったままのアカギに見下ろされながら、カイジはなにごとかをうだうだ言っている。
「だるい」だの「働きたくない」だのと寝惚けたことを言い続け、しまいには二度寝しそうになっている、その横顔。

 以前、酒を酌み交わした折に、そんな自分のことを冬眠中のクマなんぞに喩えてくだを巻いていたのを聞いたこともあるが、そのクマでさえ食べ物がなければ危険を冒して人里へ下りるなどしているのだ。
 ただゴロゴロして皮下脂肪を溜め込んでいるカイジより、クマの方がよほど勤勉である。



 アカギがそんなことを思っている間に、カイジはバイトを無断で遅刻、あるいは欠勤することを決めてしまったらしい。
 電話で断りを入れることすらせず、現実逃避するように目を瞑ってしまったカイジを、アカギはまじまじと見つめる。

 長続きしなかったとはいえ、アカギは社会に出て働いた経験もあるからこそ、やや呆れるような気持ちにもなるのだ。
 あの赤木しげるを呆れさせるということは、なかなか常人には難しいことなのだが、当の本人はそんなことに気づく様子もなく、幸せそうな顔で眠りに就こうとしている。

 その、だらしなく緩みきった表情。
 伸ばしっぱなしでぼさぼさの長髪や、体に残る不穏な傷を考慮に入れても、カイジのルックスはそう悪くないのに、この自堕落さのせいで、すべてが台無しになっている。

 もうすこしきちんとしていれば、きっと女がほっとかないだろうに。

「呆れるよ。そんなだからあんた、女にもてないんだぜ」
「うるせぇな……余計なお世話だっつうの……」
 思ったことをそのまま口に出すアカギに、カイジは目を瞑ったまま眉間に皺を寄せる。
 本格的に寝入ろうとしているのか、それきり黙りこくってしまったカイジに、やれやれ、と思いつつアカギが踵を返しかけた、その時。
「お前はどうなんだよ? オレがこんなだからって、嫌いになったりすんのか?」
 眠りかけているとばかり思い込んでいたカイジの口から、意外な言葉が溢れ出たので、アカギはその場を離れかけた足を止める。
 相変わらず閉じられたままのうすい瞼と、そこから伸びる短くて黒い睫毛を見ながら、アカギは口を開いた。
「ならない、けど」
 まっとうな人間なら誰もがドン引きし、嫌厭するような自堕落さ。
 だけど、そんな目に見える要素に惚れたわけじゃないアカギにとっては、そんなの取るに足らない瑣末事なのだ。
「あっそ。じゃあ、いいや。このままで」
 あっけらかんとそう言うと、カイジはもぞもぞと身じろいで布団に深く包まる。

 まるでアカギの返事などわかりきっていたとでもいうような、その態度。
 ふたたびとろとろし始めるカイジの顔を、アカギはしばし眺めていたが、やがてベッドの縁に乗り上げると、掛け布団を剥いで寒さに悲鳴を上げるカイジの隣に滑り込んだ。
「えっ……お前、代打ちは?」
「行くよ。これが終わったらね」
 不審そうな半眼で問いかけるカイジの肩を抱き寄せながら、アカギはそう答える。

 今からこんなことを始めてしまっては、カイジだけじゃなくアカギも遅刻確実で、雇われたヤクザにどやされること必至なのだが、正直そんなことどうだってよくなるようなことを言われてしまったのだから、しょうがない。

「え〜……勘弁してくれ……お前、なにいきなり盛ってんだよ……」
「あんたが悪い……」
 自分の発言がいかに相手を煽ったのかを自覚していなさそうなカイジの、シーツの跡がくっきりと残る頬に、アカギは荒々しく口づける。


 ここ最近、赤木しげるの遅刻が多いのは、ある一匹の冬眠する動物が原因だということは、裏社会でもいっさい、知られていない事実でなのであった。






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