医者いらず しげるがリンゴを切る話 ほのぼの



 もう日も暮れかかる時分、ノックされたドアを開けたカイジは、そこに立っている学ラン姿の少年を見て、眉根を深く寄せた。
「今日は来るなって言っただろ……しげる……」
 老人みたいな嗄れ声で嗜め、痰の絡んだ咳を二、三度するカイジに、しげるは愉快そうに目を細める。
「知ってるよ。風邪なんでしょ? 電話で聞いたよ、あんたから」
 小憎たらしい言い様にカイジがムッとしていると、しげるは手に提げた大きなビニール袋を、見せつけるように軽く擡げてみせた。
「だからこそ、来てあげたんじゃない。男ひとりじゃ大変だろうと思ってさ。ちゃんと、見舞いの品も持ってきたぜ?」
 まるで悪びれた様子のないしげるに、カイジはげんなりした顔になる。
「うつっちまっても知らねえぞ……」
「そうなったら、あんたに看病して貰うさ」
「ふざけんな……頼まれても看病なんざしねえぞ、オレは……」
 カイジは渋面をつくってみせたが、しげるはすました顔で「そう?」とだけ返事をして、
「まぁ……とりあえず、部屋に上げてよ。こんなところで立ち話なんてしてたら風邪、悪化しちまうぜ?」
 などと、つるりとした顔で言う。

 しげるにまったく引き下がる気がないことを悟ったカイジは、聞こえよがしにため息をついて、部屋の奥を顎で示し「……入れよ」と促した。





 季節の変わり目は、体調を崩しやすい。
 わかってはいたものの、だらだらと長く尾を引く残暑に「まだまだ夏だ」と油断しきっていたカイジは、ここ二、三日で急激に秋めいてきた気候にやられ、まんまと風邪をひいてしまったのだ。

 急に襲ってきた喉の痛みを伴う寒気に『これはマズい』と焦りつつ、さっき熱を測ったら七度を越えていた。
 もともと体温の高いカイジにとってはまだまだ微熱程度ではあるが、ひどい体のだるさと食欲の衰えから、経験上、今夜あたり派手に熱が上がることが予測された。

 幸い、明日はバイトのない日だったのだが、だからこそ、貴重な休みの前日に風邪をひくなんて度し難い失態に、カイジは地団駄踏みたくなるのだった。

 そこへ追い討ちをかけるようにやってきた、白髪の中学生。
 カイジは内心、頭を抱えていた。

 裏社会で『悪漢』などと呼び習わされるこの中坊に、まともな病人の世話などできるはずもない。いつものごとく相手のペースに乗せられ、振り回されて余計に風邪が悪化するだけだ。
 それが目に見えていたから、なんとかしげるを帰らせる術はないかと、ああでもないこうでもないと考えを巡らせるカイジを余所に、
「台所、借りるぜ」
 そう言って、しげるは部屋の奥へと向かっていく。

 ……台所? なにをする気だ?

 なんだかいやな予感がして、カイジは慌ててしげるの背を追う。

「お前、いったいなにするつもりなんだよ……?」

 ……まさかとは思うが、雑炊や粥やうどんなんかを拵えて、振る舞ってくれようとしているのではあるまいな?

 しげるが料理の「り」の字も知らないヤツだということは、カイジにもだいたい想像がついていた。
 なにせ、学校の授業にさえ出席している様子がほとんどないのだから、料理はおろか、包丁を握ったことがあるかどうかすら怪しい。
 そんなヤツの手料理が、無事完成まで辿り着くことなど、万に一つもある筈がないし、好き勝手引っ掻き回された台所の後片づけをさせられるのは、十中八九カイジなのである。

 そんなのは御免被ると、ヒヤヒヤしながらしげるの答えを待つカイジに、しげるは手に提げた袋の中をガサゴソと探り、ぬっと腕を突き出した。

 真白な掌の上に乗っかっているのは、見ているだけで健康になれそうな、つやつやとした真っ赤な果実。

「『医者いらず』っていうんだろ、これ」

 どこで知ったのか、そんな諺を口にして、しげるは提げている袋をその辺にドサリと置いた。

 しげるがやろうとしていることを察し、カイジは慌てて問いかける。
「待てっ……、お前、リンゴの皮剥きなんてしたことあんのかよ?」
「ないけど」
 そう返事をしながら、しげるはさっさとまな板をシンクの上に置き、蛇口を捻ってリンゴを洗っている。
「ないけど、って……」
 カイジは呟き、包丁を手に取るしげるの手許を、ハラハラしながら食い入るように見守った。
 包丁の握り方は普通だ。そんなことにもいちいちホッとしてしまい、カイジは思わず独りごちる。
「キ……、なんとかに刃物ってやつだよな、まさに」
「キ? ……何?」
「なんでもねえよ、気にすんな」
 カイジはヘラリと笑って誤魔化そうとしたが、しげるは半眼になる。
「ねえカイジさん、なに言いかけたの?」
「おいっ、病人に刃物向けんなっ……!」
 鈍く光る刃先を向けられ、冷や汗をかきながら後ずさるカイジをしばらく眺めたあと、しげるはため息をついた。
「……あのさ。病人ならこんなとこに突っ立ってないで、おとなしく寝てなよ。……あんた、過保護すぎるぜ」
 呆れ声で指摘され、途端にカイジは己の言動が恥ずかしくなってくる。

 確かに、いくら料理の経験が浅いとはいえ、リンゴを切る程度のことを、しげるが仕損じるはずもない。
 相手は幼稚園児じゃないのだ。怪我をするのでは、などという心配など、するほうが間抜けというものだろう。

 と、思うのと同時に、気が緩んだのか、今の今まですっかり忘れていた寒気が急にぶり返してきて、カイジは思わずその身をブルリと震え上がらせる。
 明らかに熱が上がっているし、クラクラと目が眩むような感覚もあった。

 このまま突っ立っていたら、この場でぶっ倒れかねない。
 そう危ぶんだカイジは、しげるの言うとおり、おとなしく退散することにした。

 ……とはいうものの、やはりしげるの様子が気になって、しつこく後ろ髪引かれつつ、カイジはその後ろ姿に声を投げる。
「指、切り落とすなよ」
「……あんたじゃあるまいし」
 振り返りもしないまま失笑混じりに切り返され、カイジは渋い顔で、すごすごとベッドへと戻った。


 冷たい布団の間に身を滑らせた瞬間、強烈な寒気と頭の痛みがカイジを襲う。
 やはりこれから夜半にかけ、熱は上がっていくのだろう。
 うんざりしながら天井の木目を睨んでいると、やがてぺたぺたと軽い足音が近づいてきて、しげるが台所から戻ってきた。
「お待たせ。……体、起こせる?」
 頷きながら、カイジはゆっくりと起き上がる。
 それから、ベッドの傍に立つしげるの持っている平皿を見て、唖然とした。

「なんつーか……ある意味器用だな、お前……」

 そこに盛られているのは、赤い皮付きのまま、一口大のゴロゴロとした欠片にされたリンゴだった。
 一個一個の形状は、三角だったり四角だったり、あるいはもっと角が多かったりとバラバラで、秩序というものがまるでない。
 まるで、屈強な男が素手で握り潰したかのようだった。
「これ、包丁使って切ったんだよな?」
 思わず問いかけると、しげるは不審そうな顔をする。
「使わないと切れないでしょ。寝ぼけてるの?」
 ……包丁を使っておきながら、こんな風に切れるというのが、逆に凄い。

 想像の斜め上をいく光景にカイジが感心すら覚えていると、しげるはベッドの縁に腰掛け、皿の上からリンゴを一つつまんで、カイジの口許へと突き出した。
 甘酸っぱい果実の香りが、カイジの鼻腔を擽る。
「ほら、口、あけなよ」
 淡々と言うしげると、つややかな白い果実を見比べ、カイジは辟易する。
「い、いや、自分で食べられ……んぐっ……!!」
 カイジが口を開くや否や、その中にリンゴの欠片が、容赦なく突っ込まれた。
 病人に対する労りの欠片もないような強引さに、カイジは激しく噎せ返りながらしげるを睨みつける。
 しげるはいつもの無表情を装ってはいるが、その目の奥には、愉しげな色がはっきりとちらついていた。
(コイツ……っ!!)
 額に青筋を立てながら、カイジは涙目でリンゴを噛み砕く。
「んっ……?」
 その瞬間、カイジは目を見開いた。

 信じられないくらい、美味い。
 砕けたとたん、瑞々しい果汁が口いっぱいに広がるのだ。
 食感はシャキシャキと軽く、蜜の味がして甘いのに、さっぱりとしている。
 
 正直、胃が固形物を受けつけるかどうかも怪しいと思っていたのに、カイジの体はリンゴをあっさりと受け入れてしまった。
 口の中のリンゴを咀嚼して飲み込むと、カイジの手は自然と皿へと伸びていく。

 ふたつ、みっつと無心で食べるうち、カイジは喉がひどく渇いていたことに初めて気がついた。
 滴るような甘い果汁が、荒れた喉にやさしく染みる。

 形こそ不揃いであるものの、しげるの切ったリンゴの欠片が、ちょうどカイジの食べやすい大きさに統一されているのも良かった。
 果たして偶然そうなったのか、それとも、そうなるように計算して切ったのか。

 どちらだろうと思いながら、カイジがしげるの顔を眺めていると、視線に気づいたしげるが緩く口角を持ち上げた。
「うまい?」
 訊かれて、はっとしたカイジが皿の上に目を落とすと、いつの間にかリンゴは半分の量にまで減っていた。
 無意識のうちにそこまで食べ進めてしまったことに、なんとなくバツの悪さを感じ、カイジは赤くなる。
「うまい」
 ぼそりと答えると、「そりゃよかった」と言って、しげるもリンゴを一かけ自分の口に放った。

「なぁ……ひょっとしてこのリンゴ、ものすごく高いんじゃねえか?」
 おっかなびっくり、カイジは訊いてみる。
 このリンゴはカイジにとって、今まで食べてきた『リンゴ』と同じ食べ物だとは思えないくらい、素晴らしく美味だったのだ。
 近所のスーパーマーケットで気軽に購入できるような品じゃないことは、まず間違いないだろう。

 もぐもぐと口を動かしながら、しげるは記憶を手繰るように、視線を宙にさまよわせる。
「……一個、二千円くらいだったかな」
「にっ、二千円っ……!?」
 あっけらかんとした顔で言うしげるを横目に、カイジは絶句して皿に目を落とす。

 この一皿で、二千円……
 しげるはリンゴの相場というものを知らないのだろうか?

 開いた口の塞がらないカイジだったが、
「リンゴの善し悪しなんてわかんねえし、時間がなかったから。すぐに手に入る中で、いちばん高いのを買ってきた」
 というしげるの台詞に、目を丸くした。

 こいつ、オレのためにこんな高いリンゴを……しかも、急いで……

 風邪っぴき特有の情緒不安定さも手伝って、カイジはつい、ジーンとしてしまう。
 そんなしげるを邪険に追い返そうとしていたことに、今さらながら罪の意識を感じ、カイジはぼそぼそと礼を言った。
「……ありがとな。お前が来てくれて、助かったよ」
 ほんのりと照れくさそうに笑ってみせるカイジに、しげるもうすい笑みを返す。
「早く治るといいね」
 素直な声でそう言ったあと、しげるはその笑みを意地の悪いものに変える。
「まぁ……べつに、治らなくてもいいけど」
 くるりと掌返すような発言に、カイジは眉をきつく寄せた。
「お前……縁起でもねぇこと言うなよな」
「弱ってるあんたを見るのは、なかなか気分がいい」
「……」
 前言撤回。
 この悪ガキ相手に、一瞬でも罪の意識なんて抱いたオレが馬鹿だったと、カイジは苦々しい顔でリンゴに手を伸ばす。
 八つ当たりのようにムシャムシャと、大きくリンゴを噛み砕くカイジを見て、しげるは笑みを深める。
「リンゴ。まだたくさんあるから、どんどん食べなよ」
 カイジは動きをピタリと止めた。
「たくさん……って、まさか……」
 頭に浮かぶのは、しげるが提げてきた大きなビニール袋。
「まさか、あの中身、全部リンゴなのかよっ……!?」
「そうだけど」
 素っ頓狂なカイジの大声に、しげるはしれっと答える。
「一日一個食わねぇと、医者いらずにはならねえんだろ?」
 すまし顔で言うしげるに、しばしの間、ぽかんとしたあと、カイジは大きく吹き出してしまった。

 不格好だが食べやすいリンゴの切り方といい、諺を信じて高価なリンゴを食べきれないほど買い込んでくるところといい、しげるの行動はズレているくせに妙に素直で、カイジの笑いを誘う。
 しげるの訝しげな顔が可笑しくて、さらに声を上げて笑うと、不思議と、体の怠さがちょっとだけマシになったような気がした。

 案外、一個二千円の高級リンゴよりも、これがいちばんの『医者いらず』なのかもしれねぇな……

 決して口には出さず、そんなことを思いながら、
「ありがとよ、しげる」
 カイジはもう一度、心からしげるに礼を言った。





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