再会 神域没後 カイジさんが病んでる


 複数の男の怒声と罵声。その中にときおり混じる自分の名前を聞きながら、オレは薄汚く湿った路地で、じっと息を殺していた。
 冷たい秋雨が体温を容赦なく奪っていく中、右掌で押さえつけている脇腹だけが狂ったような熱を持っている。指の間からは止めどなく血が溢れ続け、アスファルトの上に流れ落ちたそれを雨の滴が滲ませていった。

 脚に力が入らなくなってきて、薄汚れた壁に背中を預けたまま、オレはズルズルと地面に座り込む。
 猛烈に寒い。痛みに食いしばった歯の根も合わぬほどに。

 路上で襲撃されたという状況だけは把握できているものの、こんな目に遭わされる理由がいったいなんなのか、わからない。
 身に覚えがないのではない。思い当たるフシが多すぎるのだ。帝愛絡みの連中ではなさそうだから、きっと最近出入りしたどこかの賭場の差し金だろう。そこまでわかっていても、心当たりがありすぎて相手を特定できない。

 瞼を閉じると、さっき脇腹を刺されたときの光景が、悪夢のように蘇ってくる。
 振るわれた軌跡が残像として残りそうなほど、ギラギラと光るナイフの刃。それを出会い頭に、脇腹へと食い込まされたのだ。
 鋭利な刃物でやられた傷だから、早めに処置すれば治りは早いのかもしれないがーー、

 そこまで考えて、くらりと目眩がした。
 目の前が暗くなり、意識が遠退いてゆく。
 オレを探す声の混じる喧騒も、刺された傷の灼けるような激痛も、体を濡らす雨の冷たさも、世界のすべてが急速に遠ざかっていく。

 ああ、
 こんなところで、
 オレは、死んじまうんだろうかーー

 どっ、と地面に倒れ込み、オレはそのまま意識を失った。







 はっと気がつくと、オレは今までいた所とはまったくべつの場所にいた。
 風が絶えず吹いているのに、屋内なのかも室内なのかさえはっきりとしない。すかすかとだだっ広くて、なにもない場所。
 意識を失う前のままの格好で倒れているオレの顔を、上から覗き込んでいる男がいる。

「よぉ、まーた来たのか、お前は。しょうがねぇ奴だな、ったく」

 呆れたような声を聞いて、オレはバネのように跳ね起き、その人の名前を呼んだ。

「あ、赤木っ、さんっ……!」

 その名を口にしたとたん、懐かしさが込み上げてくる。
 白い髪とスーツ、派手な柄のシャツ、理知的な瞳、低くやわらかい声。
 なんど再会したって、慕わしさで胸がいっぱいになるのを止められない。

 しかし、そんなオレに赤木さんは片眉を上げ、盛大なため息をついた。

「『あかぎっさんっ!』じゃねえよ。もうここへは来るなって、あれほど言ったろ、このアホタレ」
「だ、だって、」

 言い訳をしかけたところで、オレは脇腹の痛みがなくなっていることにようやく気がつく。
 強く押さえつけたままだった掌をそっと離すと、そこにあったはずの傷は跡形もなく消え去っており、嘘のように綺麗になっていた。
 それを見て、ああ、前の時と同じだ、と思う。



 去年の九月に亡くなったはずの赤木さんに、初めて『再会』した時の衝撃は、今でもよく覚えている。
 その頃、オレは法から完全に逸脱しているような、危険な博打に没頭していて、アングラな賭場にも頻繁に顔を出していた。
 最初は調子も良かったが、出入りを重ねるごとに雲行きは怪しくなる一方で、ある日とうとう、払いきれなくなったツケを命で支払う羽目にーー要は、殺されそうになった。
 廃倉庫に閉じ込められ、チンピラのような連中によってたかって暴力を振るわれ、瀕死の状態で気を失ったのだ。

 あのときは流石に、もうダメかもしれないと覚悟した。
 だが、次に目を覚ましたとき、オレは見知らぬ場所に昏倒していて、体に受けた傷はひとつ残らず消え失せていた。
 そうしてやはり、今と同じようにして、赤木さんが目の前に立っていたのだ。

 泡を食って飛び起きるオレをのんびりと眺め、赤木さんはひょいと右手を上げて、ちょっとだけ困ったような顔で、笑ってみせたのだった。

『よぉ。久しぶりだな、カイジ。お前なんだって、こんなところに来ちまったんだ?』



 それが、最初の『再会』。
 その後にももう一度、オレは生死の境をさまよい、この場所へと飛ばされたことがある。
 だからオレは今、赤木さんとの三度目の『再会』をしていることになる。


 これはオレの推測でしかないのだけれど、この場所はきっと、この世とあの世の境目のようなところなのだと思う。
 ずっと考えていた。赤木さんは死んでも、あの世になんて行かないんじゃないかって。言葉でうまく説明はできないけれども、『この世』とか『あの世』とか、そういう枠を超越したところに赤木さんは旅立ったんじゃないかって、オレはずっとそう思っていたのだ。

 だから、死ぬか生きるかの瀬戸際に立つと、赤木さんと再会できるようになった。
 嘘みたいな馬鹿げた話だけれど、そう考えるのがいちばん自然な気がする。相手が赤木さんならこんな出来事も、すんなり受け入れられるのが不思議だ。
 あるいは、瀕死のオレの脳味噌が見せている、都合のいい夢でしかないかもしれないけどーー、でも、べつに、それならそれで構わない。
 夢でもなんでも、とにかくオレは、赤木さんにまた会うことができる術を知ったのだ。


 だけど赤木さんはオレがここへ来ても、あまりいい顔をしない。
 いつだって会話もそこそこにすぐ追い出されるし(赤木さんに追い出されると、オレの意識は現実に戻る)『もう来るな』ってなんども言われた。
 当たり前か。ここに来るってことは、現実のオレは今まさに、死にかけてるってことなんだから。
 オレのことを大事にしてくれた赤木さんが、いい顔するわけがない。

 眉間に深く皺を刻み、赤木さんは今までになく険しい顔でオレを見ている。
 その視線がいたたまれなくて、オレは目を逸らしながらぼそぼそと反論した。
「オレだって、来たくてここへ来てるわけじゃ……」
「嘘つけ。……お前さん、自暴自棄になってんだろ」
 一蹴されて、ぐうの音も出ず黙り込む。
 どうしてこの人には、すべてわかってしまうのだろう。なにもかも、赤木さんの言うとおりだった。

 赤木さんが死んでしまって、ずっと憧れていた人が突然いなくなってしまって、オレは今、ちょっと荒れているのだ。
 自覚はある。でも止められない。全身の血が沸き立つような充実感からはかけ離れたところにあるような、つまらない博打に身を投じては、命をどぶに捨てるようなことを繰り返している。
 赤木さんと初めて『再会』してからは、さらに拍車がかかった。あんなに『死にたくない』と思い、這いつくばって数々の修羅場を潜り抜けてきたのに。

 今の自分の状態が、尋常じゃないのはわかっている。
 けれどもーー、死にそうな目に遭えば、また赤木さんに会うことができるのだ。
 それはとても、抗いがたい誘惑だった。
 同時に、自分がいかに赤木さんに強く縛りつけられているか、オレはつくづくと思い知らされたのだ。

「おいおい。俺は男を縛りつける趣味なんざ、持った覚えはねえぞ」

 赤木さんは鼻白んだような顔で言う。ここではオレの考えていることが、赤木さんにすべて筒抜けになってしまうらしい。

 不思議な場所だ。すべてを吹き飛ばすような風がいつも強く吹いていて、なにもない空間なのに、秋晴れの空のように清々しい場所。
 赤木さんだっているし、ずっとここにいてもいいかもな、なんて、本気で思ってしまう場所ーー

 またオレの考えていることを読み取ったのか、赤木さんは、やれやれ、と首を横に振った。

「俺ひとりいなくなったくらいで、すっかり腑抜けになっちまいやがって。お前みたいな青二才がこんなところに来るなんざ、百年早えんだよ」

 厳しい声でぴしゃりと言い放たれ、思わず身を竦ませる。
 赤木さんはずっと座り込んだままのオレの前にしゃがみこむと、目線の高さを合わせて顔を覗き込んできた。
 いきなり近くなった距離に、オレは動揺し、肩を揺らしてしまう。
 その隙に、赤木さんは右手を伸ばし、前髪を避けてオレの額にそっと触れた。

 あたたかい。赤木さんの掌は、まるで日向のような温度だった。
 生きてるときの赤木さんの手も、こんなにあたたかかっただろうか? ぼんやりとそう思ってから、そんなことを思う自分にギクリとした。
 何十回、何百回と触れてきた掌なのに、生前の赤木さんの掌の温度をどうしても思い出せない。どんなに忘れようとしても、忘れられないもののはずだったのに。

「本当はこんなこと、したくねえんだがなぁ。そうかといってお前のこと、放ってもおけねえしな」

 あたたかい掌が、額に触れている。
 心地良いけれど、その掌を通して、なにかとても大切なものを、やさしくやさしく、奪われていくのがわかった。
 いいようのない不安と焦りに、心を覆われる。

 赤木さん。
 必死で呼ぼうとするけれど、ふいに襲ってきた強烈な睡魔のせいで叶わなかった。

「俺が好きなのはな、カイジ。『生きてる』お前なんだよ。だから戻れ。いつかまたそのうち、会える日も来るだろうさ」

 やわらかい言葉を耳が拾うが、眠気に鈍った脳では理解できない。
 瞼が重たくて持ち上がらず、赤木さんの表情を見ることもできない。

「自分の命の扱い方を間違えるなよ。ここぞって時に、きちんと張れるようにしとけ」

 赤木さん。
 なんとか口を開こうとするが、ものすごい早さで気が遠退いていく。
 抗うこともできないまま、オレの意識はブツリと途絶え、真っ暗な闇の底へと沈んでいった。






 瞼を大粒の雫で叩かれ、オレは目を覚ました。
 どうやらすこしの間、気を失っていたらしい。
 小雨はいつの間にか土砂降りに変わっていて、脇腹の傷からドクドクと流れつづける血を、濯ぐように洗い流している。

 とりあえず、地面に倒れていた体を起こす。
 失血のせいで、体が凍るように冷たい。
 震えながら、額に手を当てる。なぜだかそこに、温もりがあるような気がしたから。

 夢を見ていたような気がする。悪くない夢。でも、内容がさっぱり思い出せない。
 誰か、とても大切な人と話をしていたような気がするけれども、それが誰なのかは忘れてしまった。

 なぜだか、もどかしく、泣きたいような気持ちになる。
 だけど同時に、今まで心を重く占めていた『なにか』が突然ふっと消え去り、心がとても軽くなっていることに気がついた。

 そして、スカスカに軽くなったオレの心の中に、静かに満ちていくものがある。
 体の底から血の沸き立つような感覚。どんなに絶望的な状況でも、生き延びてやるという気概。
 それらは心から溢れ、体の隅々まで漲っていく。

 しかし、その感覚はひどく馴染みのあるもので、変化があった、というよりは、元の自分に戻った、という方が正しいような気がした。


 冷たく濡れた髪が張り付く額に、温もりなどあるはずもなく、オレはそこからゆっくりと己の手を離し、開いた掌を見つめる。

 オレはいったい、なにを失ったのだろう。
 そして代わりに、なにを手に入れたのだろうか。

 そこで、オレを探している奴等の声がすぐ近くの通りから聞こえてきて、はっとした。
 夢の内容は気になるが、とりあえず、今は感傷めいた気分に浸っている場合ではない。
 深呼吸すると、脇腹がズキズキと痛む。その痛みがオレに、『生きてる』って実感を与えてくれた。

 冷え切った体は思うように動かない。かなりの量の血を失っているせいで、歩けるかどうかすら怪しい。

 それなのに、不思議とまったく死ぬ気がしなかった。
 まるで、誰かに背中を強く押されているみたいに、生きようとする気力が沸いてくる。
 震える唇を引き結び、オレは顔を上げる。

 どんな手を使ってでも、ぜったいに生き延びてやる。
 こんなところで、死んでたまるかよ。

 そう強く心に誓って、オレは強く強く、拳を握り締めた。





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