propose



 夜明け前の空と海は紺碧の色をしていて、そのちょうど境目が、うっすらと乳のような白色に染まりつつある。
 じわじわと近づいてくる朝の足音に、遠くの街灯りも息を潜めるようにして、徐々にその輝きを失い始めていた。

 手首に巻いた安物の腕時計の文字盤を確認して、カイジは顔を上げる。
 片手に提げた鞄を気怠げにぶらぶらさせながら、不法投棄されたゴミの散乱する砂浜を歩いていく。
 時折、なにかを探すように辺りを見渡しつつ、だらだらと。

 寄せては返す波の音が、眠気を誘う。
 とろとろとした微睡みに沈みかけながら、惰性的に足を動かし、四度目の大欠伸をしたところで、カイジは『それ』を見つけた。

 涙で潤んだ視界にぼやけて映るのは、波打ち際に後ろ手をついて座る人の姿。
 海水に濡れるのも構わずに、胡座をかいて水平線を眺めているようだ。

 カイジは顔を顰めると、さっきよりややしっかりとした足取りでその人物に近づいていく。
 生臭い潮の香りが濃くなり、サンダルから出た剥き出しの爪先と、ジーンズの裾が波に噛まれて濡れた。

 無言のまま傍らに立つと、その男はまっすぐにカイジを見上げた。
 それから、雫の滴り落ちる白い前髪を掻き上げて、その下の鋭い目を軽く見開くと、やや面喰らったような表情を浮かべる。
「参ったな……今さら泣かれるだなんて、思ってもみなかった」
 平らな声で呟かれたその言葉の意味がわからず、カイジは一瞬、眉を寄せたが、すぐにハッとして己の目端に指で触れる。
 度重なる大欠伸によってそこに光っている涙を、男は図々しくも、自分のために流されたものだと思い込んでいるらしい。
「ちげぇよ、アホ。誰かさんがこんな時間にこんなトコ呼び出すから、欠伸が止まんねえんだよ」
 呆れ顔でカイジが言い返すと、男は「そう」と言って、それから緩く首を傾げた。
「あんたさ、最近なんか、可愛げねえよな……昔はよく、オレが会いに来ただけで、泣いたり怒ったりしてたのに」
「あぁ?」
 見る間にカイジは不愉快そうな顔になる。
 確かに男の言うとおり、数年前……出会いたての頃は、いつどこでコロリと死んでしまうかわからないような男の生き方にやきもきして、泣いたり怒ったり、いろいろ口うるさく言ったりもした。
 けれども、長年同じやり取りを繰り返すうち、流石のカイジも慣れてきてしまったのだ。
 それを可愛げがないだのなんだのと好き勝手言う男に、カイジは口をへの字にひん曲げる。

 男から電話で連絡が来たのが、ちょうど二日前。
 この日のこの時間に、この砂浜へ、乾いたタオルと着替えを持って来いと告げられたのだ。

 言われたとおりにしてみたら、果たしてそこに男はいた。
 頭から爪先まで塩水にぐっしょり濡れているその体の、其処此処に残るまだ新しい切り傷。そして、左目の下に濃く残る、青黒い痣。
 男がどこでなにをしてきたかなど、カイジは知る由もないが、その姿を見ただけで大方の察しはつく。
 だから、あえて詳細を問い質そうとはしなかった。訊いても、この手のことをこまごまと説明するのが嫌いな男に、適当にはぐらかされるのが常だからだ。

 それにしても、と男の姿を改めて眺め、カイジは驚き呆れずにはいられない。
 どこから逃げてきたのかは知らないが、自力で泳いでこの砂浜まで逃げ果せられる推算があったとしても、二日前にこうなることを予測して、カイジに予め連絡を入れておく、なんてことまでやってのけるのは、この男ならでは、といったところだろうか。

 男のやることは、いつもこのように突拍子もなくて無茶苦茶で、それでも毎度、その突拍子もない無茶をすんなりと通してくる。
 どんなに不可能だと思われるようなことでも、男にとってはそうでもなさそうなのが不思議だった。

 裏社会では近ごろ、男を『神域』などと呼ぶ連中も出てきているらしい。
 確かに、神懸かりとしか思えないような奇跡を数多く起こしてきたのだろうが、しかし毎度振り回されているカイジからすると『傍迷惑な男』という印象しかない。
 情を交わした相手でなければ、こんなにも献身的に男の言うことに従ってはいなかっただろうとカイジは思うが、実際はそれだけでなく、カイジ自身こうして振り回されることを、密かに愉しんでいるフシがあるのだった。



「ほら……いい加減立てよ、アカギ」
 カイジはそう言って、波打ち際に座り込んだままの男に向かって手を差し伸べる。
 泳いでここまで逃げてきたのだとすると、もといた場所はここからそう遠くないのだろう。
 アカギの体に生々しい傷を作った相手は、この男をもう死んだものだと思い込んでいるかもしれないが、注意するに越したことはない。とりあえず、この砂浜に長居は無用だ。
 長年のアカギとのつき合いのお陰で、カイジはそういう判断を一瞬で下せるようになっていた。

 差し伸べられたカイジの手をじっと見つめたあと、アカギは素直に己の右手を差し出す。
 アカギがしっかりと自分の手を掴んだのを確認して、カイジは腕に力を込めてアカギを引っ張り上げようとした。
 ……が、それよりも一瞬速く、逆にぐいと腕を引かれて、カイジの体が大きく傾ぐ。
「う、おっ……!!」
 焦った声を上げ、ふらつく足でなんとかバランスを保とうとしたが、結局堪えきれずに転び、鞄を放り出して濡れた砂の上に尻餅をついてしまった。
 すぐに寄せてきた波がカイジの体を撫で、ジーンズの色を変え、鞄を濡らし、嘲笑うかのような音をたてながら海へと帰っていく。
 呆然とするカイジを見て、アカギは肩を揺らした。
「水も滴る、いい男になったじゃない」
「アカギっ、お前なぁっ……!」
 カイジは目に角を立ててアカギに吠えつこうとしたが、体を起こした瞬間に唇を塞がれ、言葉を舌で絡め取られる。
 生ぬるく、ざらついた感触。
 目の前で伏せられた瞼はいつにも増して透き通るように白く、その体が冷え切っていることを伝えている。
 カイジは渋々目を閉じ、沸々と湧き上がるアカギへの文句を混ざり合った唾液ごと飲み込むようにして、塩辛い味のキスを受け入れた。






「このごろ……、ちょっと、飽きてきたんだ」
 さざ波の音を五回ほど聞き流したころ、唇を離してアカギがぽつりと呟いた。
「……何に?」
 カイジが問いかけると、アカギはしばしの沈黙のあと、
「あんたにこうして、ときどき会いに行くことに」
 と答えた。
 もともと大きなカイジの目が、限界まで見開かれる。
 なんども唾を飲み下し、言うべき言葉を探すように口を開いたり閉じたりしていたが、その間も表情をすこしも変えないアカギに、喉をヒクリと引き攣らせ、項垂れるようにして俯いた。
「そう……、そうか」
 黒く濡れた砂を見つめたまま、浅く喘ぐようにしてカイジは呟く。
 いつか、こんな日が来るのではないかと、心のどこかで思ってはいたのだ。
 自由奔放、風まかせに生きる男を、多少なりと繋ぎ止めてしまっている自覚はあった。その細い糸は、いつ気まぐれにぷつりと切られてもおかしくはないということも。

 それにしても、『飽きた』とはひどい言われようだ。アカギらしい忌憚のなさではあるけれども、とカイジはすこし可笑しく思う。
 覚悟は決めていたから、涙は出なかった。
 大きく深呼吸したあと、カイジはきっぱりと顔を上げ、「わかったよ」と言う。
 はっきりとした口調と、真正面から見据えてくる瞳の強さに、アカギは肩を竦めた。
「……やっぱり、泣かなくなったよな」
「ん?」
「こっちの話」
 ややつまらなさそうに言って、アカギは上着のポケットからタバコを取り出す。
 しかしハイライトブルーのパッケージは当然、滴るほどに濡れそぼっていて、アカギは軽く舌打ちしたあと、それを手の中で握り潰した。
 それから、ふっと息をついて、カイジと目を合わせる。
「オレから会いに行くのには、もう飽きた。だから……、あんたについてきて貰いたいんだ、カイジさん」
 凪いだ波の音のように静かな声音で、ゆっくりと紡がれた言葉。
 それを耳にした瞬間、カイジは石のように硬直してしまった。
 その顔を間近から覗き込むようにして、アカギは続ける。
「オレはこれからも生き方を変えるつもりはない。死ぬときがきたら、いつでも綺麗に死んでやる。……かといって、あんたと離れる気だってない」
 アカギはそこで言葉を切り、緩く口角を持ち上げた。
「だから……、そのときがきたら、カイジさん。一緒に死んでくれる?」
 冗談か本気かわからないような口調で、淡々とかけられた問いに、カイジはすぐには答えなかった。
 時が止まってしまったかのような沈黙の中、規則と不規則の入り交じった波の音だけが、ふたりに時間の経過を教えていた。


「……いいぜ。お前とだったらな」
 やがて、カイジは口を開き、ぽつりとそう呟いた。
 深層まで斬り込んでくるようなアカギの鋭い双眸を、まっすぐに見返す目の眦に、やはり涙は滲んでいない。

 まるでなにかに挑むときのような、強い眼差しでカイジは続ける。
「……ただし、オレは綺麗になんて死んでやるつもり、更々ねえからな。頭と体破裂するまで酷使して、死に物狂いで足掻いて足掻いて、それでももう、どうしてもダメだって状況に陥ったら……その時は、諦めてお前と死んでやるよ」
 これだけは譲れない、という断固とした意思を感じさせる口調に、アカギは瞼を閉じ「そう」と呟いた。

 一度は別れを覚悟したからだろう。カイジはどこかホッとしたように表情を緩ませている。
 そして、その緩みからぽろりと溢れ出したようなやわらかい声で「でも、」と呟いた。
「でも……、もし本当にいつかそんな日が来たとしても、オレは大声で笑いながら死ねる気がするよ。……お前が、隣にいるならな」
 独り言のようにそう言って、カイジはアカギにニッと笑いかける。
 和らいだその表情、安心した子供のように素直な笑みを、ちょうど海の向こうに昇る黄金色の朝日が照らし出す。

 刃物のような目をすこしだけ丸くして、アカギは黙ったまま、カイジの顔に見入っていた。
「……なんだよ?」
 アカギの様子がおかしいことに気付き、不審そうに眉を寄せるカイジに、アカギはクスリと笑い、首を横に振る。
「ちょっとね。見とれてた」
 思いがけない答えに驚いたような顔をしたあと、カイジは海の向こうへと目を遣り、納得したように頷く。
「……ああ、朝日か」
 目の上に手で庇を作って水平線に目を遣るカイジを、眩しげに見つめながらアカギは言った。
「いや、あんたに」
 カイジはギョッとしたような顔つきになり、どうリアクションすればいいかわからない、といった風に片頬を引き攣らせたあと、とても複雑そうな表情で「……ありがとよ」と言った。






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