傘の下 ほのぼの


 明け方、アカギが雀荘を出ると、小雨がぱらついていた。

 地面をあたたかく湿らせるような、やわらかい雨。灰色の空から霧のように落ち、色の濃くなったアスファルトが、むっとした匂いを放っている。
 朝方にしては、気温が高い。座って打っているだけでも汗の滲んでくるような、昨夜の蒸し暑さをひきずっているようだった。
 
 雀荘には貸し傘があったが、目もくれずにそのまま歩き出す。
 アカギは傘を滅多に使わない。必要性を感じないからだ。代打ちを引き受けた組を出るときなどに、持って行けと押しつけられることもままあるが、結局余計な荷物になるだけなので、次の目的地で置いていく。
 物心ついた時から根無し草のような生活をずっと続けているので、風雨に曝され歩くのには慣れきっている。むしろ傘で雨を防ぐ方が、アカギにとっては珍しいことなのだった。

 鞄を片手に提げたまま、濡れるのも厭わずに歩く。徹マンで熱くなった頭と、汗でべたついた体を、霧雨は包み込むように濡らしていく。まだ薄暗い景色の中、道端に咲いているアジサイだけが、雨を受けて活き活きと鮮やかだった。



「……アカギ?」
 ある程度歩いたところで、後ろから名前を呼ばれた。
 振り返ると、黒い雨傘をさしたカイジが立っていて、アカギの方を見つめている。
 どうやら、バイト帰りのようだ。
 カイジはアカギに近づくと、盛大に眉を顰める。
「お前、また傘持ってねえの?」
 濡れ鼠状態のアカギになんどか家の扉を叩かれたことのあるカイジは、アカギの傘事情を嫌というほどよく知っているのだ。
 軽く頷き、濡れて顔に張りつく前髪を鬱陶しそうに払うアカギを見て、カイジは呆れ顔になった。
「ほら、入れよ」
 傘をアカギの方へやや傾け、カイジは勧める。
 その所作と言い方があまりにも自然過ぎたので、アカギはカイジの言わんとしていることを、すぐには理解できなかった。
 それほど、カイジが相合い傘を勧めてくるということが、アカギにとっては意外だったのだ。

 奇妙な沈黙が発生したことで、カイジははっとした顔になり、うっすら赤面した。ささやかな親切心からの、深い考えもない行動だったのだろうが、アカギが固まったことで自分の行動を客観的に見直し、気恥ずかしさに襲われたのだろう。
「……それじゃ、遠慮なく」
 アカギはニヤリと笑い、カイジが傘を引く前に、さっさとその中に入ってしまう。
 カイジはぐっと言葉を詰まらせたが、今さらどうすることもできなくなって、ぶっきらぼうに傘をアカギに押し付けた。
「……入れてやったんだから、お前が持てよ」
 わざとらしいほど無愛想な言い方に、アカギは「はいはい」と返事をして傘を受け取る。カイジが握り締めていた持ち手の部分が、ほんのり熱を持っていた。

「うち、帰るんでしょ」
「……そうだけど」
「寄っていってもいい?」
「……構わねえけど」
 その『けど』ってなに、とアカギは問いたかったが、じっと苦行に堪えるようなカイジの面持ちを見ていると、なにを言う気も失せた。
 男ふたりで相合い傘をしている。その事実がなんというか、たまらないのだろう。自分から同じ傘に誘っておいて、一刻も早く逃げ出したいというような顔で唇を噛んでいるカイジに、今度はアカギが呆れ、やや笑う。


 わざと、カイジの方へ大きく傘を傾けると、ぽたぽたと傘から大粒の雫が落ちて、カイジの右肩を濡らした。
「うおっ、冷てっ!」
 飛び上がるようにして、カイジはアカギの方へと身を寄せる。
「お前なぁ、傘ぐらいしっかり……、」
 ぶつくさと文句を言いかけて、アカギとの距離が異様に近くなっていることに気がついたカイジの目が見開かれるより早く、アカギは進行方向に傘を傾け、疎らな通行人から見えないようにして、掠めるようにその唇を奪ってやった。








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