逝夏 カイジ視点 謎シリアス 暗め


 赤い金魚の群れがひらひらと尾鰭を揺らす、四角い水色の水槽を眺めていると、
「欲しいのか? 穫ってやろうか」
 赤木さんが、ひょいとオレの顔を覗き込むようにして言った。
 笑って首を横に振る。ちいさなガキ相手じゃあるまいし、『穫ってやろうか』はないだろう。
 それに、ひとり暮らしの男が金魚など持ち帰ったって、きっとすぐに世話が面倒になり、秋を待たずに死なせてしまうに違いない。


 狭い水槽の中を、金魚たちは縦横無尽に泳ぎ回っている。その中で、たったの一匹、白く光る腹を見せて水面に浮かんでいるのがいた。
 他の仲間たちのように優雅に鰭を動かすこともなく、ポンプの作り出す水流に流されるまま、ゆっくりと水面を流れていく。
 オレが見ていたのは生きている金魚などではなく、そいつなのだということを、赤木さんはきっと知らないだろう。


「行きましょう」
 水槽から目を逸らしながら言うと、赤木さんは「そうか」と言って、下駄を鳴らして歩き始める。

 赤木さんは麻の布で織られた紺色の涼しげな浴衣に、灰色の帯を締めている。
 いつも背筋がピンと伸びている赤木さんの浴衣姿は、想像していたよりもずっとよく似合っていて、見ていると胸が締め付けられた。

 浴衣を着て来て下さいなどと、どうして言ってしまったのだろう。
 いつもの服は目立つからやめて下さいと、それだけお願いすればよかったのに、つい欲を出してしまった。
 お陰で今、こんなにも苦しい。終わりが見えてさえいなければ、素直にその姿に見とれていることもできたのだろう。
 だがすべてを知ってしまった今は、勝手に思い詰める自分の心がそれすら許さないのだ。



 赤木さんから目を背け、うつむきがちにぶらぶらと歩く。自分から誘ったというのに、祭り囃子にも屋台にも、まるで心動かない。
 すれ違う人の数もまだそう多くない時刻。目線をすこし上げるだけで、激しい西日に目を刺される。
 このごろは、日が落ちるのがずいぶん早くなった。赤と橙をちょうど半分ずつ混ぜたような色の夕陽は、日を追うごとに沈むのが早くなり、すでに釣瓶落としになる片鱗を見せている。
 それが焦りに似た気持ちを生む。
 夏が終わってしまう。
 急かすような祭り囃子の笛の音が、その気持ちを増幅させる。
 人が増える前にと、せっかく夕方の早い時間を選んで出てきたのに、街の向こうへ夕陽が沈むのに併せて、オレの気分もどんどん沈んでいくのだった。


「カイジ」

 名前を呼ばれてはっと顔を上げると、赤木さんが振り返ってオレをじっと見ていた。
 オレは普通のTシャツにジーンズで、靴だっていつものスニーカーなのに、物思いしながら歩いているうち、いつの間にか赤木さんとの距離がかなり開いてしまっていたのだ。
 すみません、と謝りながら駆け寄ると、赤木さんの素直な白い髪が紅に染められて眩しく、オレはやはり目を背けずにはいられなかった。

 そんなオレの様子を気にした風もなく、赤木さんは軽い調子で言ってくれる。
「お前、食いたいものとか欲しいものとか、あったら遠慮すんなよ。せっかく祭りに来たんだから」
 オレはほとんど無言で歩くだけで、屋台にはいっさい立ち寄らず、なにも買っていなかった。
 明らかに異様なオレの様子に、赤木さんはなにも訊いてこない。きっと訊かなくても、オレの気持ちなど手に取るようにわかっているに違いない。
 その気持ちに触れて掬い上げようとしたり、変に労ったりしないのが、この人の優しさなのだと思う。
 でも、オレがこんな風になってしまったそもそもの原因は他ならぬこの人自身にあるのだから、その優しさにすこしの苛立ちも覚えた。

「欲しいものなんて、なにもありません」
 燃える夕陽を背に立つ赤木さんの、下駄の黒い鼻緒に目を落としたまま、オレはそっと呟く。
「……あんた以外は」
 できるだけ感情を押し殺そうとしたはずなのに、その声は喘ぐように震えてしまった。
 すこしの間を置いて赤木さんが笑う気配がして、その拍子に、重苦しい空気まで緩んだ気がした。



 叢の中を分け入って、誰も来ないところまで行く。
 祭りの喧噪が遠く、蜩の声が近い。
 背中に硬い樹肌の感触。振りほどけないほどやさしく肩を掴まれ、そこに押しつけられた。

 自分より幾分かちいさく感じる体を抱き寄せようと伸ばした手を、いくらか宙で彷徨わせたあと、赤木さんの浴衣の襟を掴んでそっと寛げる。

 現れた胸元は薄暗い木立の中でも眩しいほど白く、さっき見た金魚の死骸が一瞬、頭を過ぎった。
 不吉な連想を振り払うように、そこへ顔を寄せる。
 左胸のすこし上、鼓動の脈打つ位置に、唇をつけて強く吸う。
 顔を離してすこし待つと、赤い痕がくっきりと、鮮やかに浮かび上がった。
 透けそうに白い膚の上で、血の色をしたそれは活き活きと映え、金魚のようにすいすいと、今にも泳ぎ出しそうに思われた。

「やけに大胆じゃねえか」
 赤木さんが茶化すようにして言う。いけませんか、と返すと、苦笑して下から顔を覗き込まれた。
「いや、いいけどよ。でもな、お前……、こういう時くらい、ちゃんと顔、見せろって」
「い」
 やです、と言うより早く、唇を塞がれた。
 押しつけるように触れてくる、乾いた唇の感触。
 自分のつけた痕にそっと指を這わせ、目を閉じて口づけを受け入れると、瞼の裏に赤い残像がチラチラと浮かび上がった。

 白い膚の上を、夏の間だけ泳ぐ真っ赤な金魚。
 それが姿を消す頃に、きっと夏は逝ってしまうのだろう。
 そして、すぐに秋がやってくる。抗うすべもなく。

 目頭が熱くなってきて、ますますきつく瞼を閉じ合わせる。
 涙が溢れるのは、瞼の裏に焼きついた白と赤が目に沁みるからだ。
 自分自身にそう嘘をついて、オレはすこしだけ泣いた。
 頬を伝った涙が、重ねた唇を濡らす。
 それでも赤木さんは、じっとオレを抱いたまま、なにも訊かなかったし、言わなかった。






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