冷たいビルの壁に背を預けると、己の体が灼き切れそうなほど熱くなっているのがよくわかる。
 そのまま地面にずるずると座り込み、しげるは深く息をついた。

 体が軋むように痛い。
 だが生々しい痛みは、しげるにとって希薄な『生きている』という実感を与えるもので、奇妙に感覚が冴えているのがわかる。
 体中の血管がドクドクと脈打っているのを感じながら、スラックスのポケットに手を突っ込む。
 ぐしゃぐしゃに潰れたタバコのパッケージを取り出し、一本抜き出して咥える。
 火を点けようとして、マッチを擦る自分の手が細かに震えていることに初めて気がついた。
 ついさっきまで多人数を相手に殴り合いをしていた、その余韻で痺れているのだった。

 顔も見たこともないようなチンピラ数人。どうやら、しげるに恨みを持つ者から金で雇われたらしい。それぞれに武器を手にしていたが、場数を踏んでいるしげるにとって、大した相手ではなかった。
 ただ、数人からナイフで切りかかられたとき、咄嗟にすべては躱しきれないと判断したしげるは、すぐさま右腕を盾に攻撃を受けようとした。右腕は使い物にならなくなるかもしれないが、相手にも隙が生じる。その隙に乗じて、致命傷を与える方法などいくらでもある。
 極めて冷静に、しげるはそう考えていた。右腕は捨てる。その手のことを、しげるは躊躇するたちではなかった。体も命も、なにひとつ惜しいと思ったことなどないのだ。
 次に相手に喰らわせる一手のみを考えながら、右腕で攻撃を受けようとしたちょうどその時、巡視中の警官が怒鳴り込んできた。顔を見られてはまずいのか、相手は舌打ちしつつもその場から四散してゆき、面倒なことになりそうだと判断したしげるも、速やかに離れて今に至る。



 間一髪で損傷を逃れた右腕。だが大して感慨は湧かなかった。生理的な震えを残すその手で、火の点いたマッチをすぐ傍の水溜まりに捨てる。
 肺いっぱいに煙を満たし、ゆっくりと吐き出しながら、薄汚れた自分の姿に目を向ける。

 泥と砂、それから血液。
 服にも膚にもこびりついて取れないそれらを眺め、しげるはふっと息をつく。
 
 この後、訪れる約束をしていた場所がすぐ近くにある。そこへ向かう途中で襲われたのだ。
 約束の時間からすでに二時間ほど過ぎてしまったし、なにより、このナリで訪ねたら、住人にぐちぐち言われるだろうということは目に見えている。

 しげるはフィルターを噛み潰す。
 気乗りはしないが、まあ仕方ない。
 肉体的な疲労もあるし、屋根の下で休みたい。
 きっと叱られるだろうが、いつものように適当に聞き流せばいいだろう。
 短くなるまで吸ってから、腰を上げる。タバコを水溜まりに投げ捨てると、辺りに人の気配がないのを伺ってから、しげるは夜の闇に紛れて歩き出した。
 








 アパートの扉をノックして、住人が顔を出すまでの間、果たして第一声はなんだろうかとしげるはぼんやり考えていた。
 自分の姿を見たら、きっと目を吊り上げて怒るに決まってる。それは人並みに心配されているということなのだろうけれど、しげるにとっては過保護に感じられた。
 自分だって、死ぬまで残るような傷を体のあちこちに持っているくせに、自分を叱るその男が滑稽に見えることすらあった。
 言い訳する気すら起きず、どうやってやり過ごそうかと考えているうちに、扉の向こうからバタバタとかけつけるような足音が近づいてきて、鍵の開く音がした。

 勢いよくドアが開け放たれる。顔を出した住人は、軽く息を切らせていた。
 裸足のままで玄関に下り、もともと大きな目をさらに大きく見開いて、前のめり気味にしげるのことを、穴が開くほどまじまじと見つめている。
 鬼気迫るようなその表情が予想外すぎて、しげるは一瞬、呆気にとられた。
 思わず一歩、後ずさりしかけたしげるの目の前で、その顔が泣き笑いみたいにくしゃりと歪んだ。
「よかった……無事で……」
 ふわりと覆い被さるようにして、しげるの体が男に抱き寄せられる。
 丸くなった目で瞬くしげるの耳許で、空気が抜けていくように深く深く、男はため息をついていた。
 心の底から安堵しているようだった。叱られるだろうと踏んでいたしげるは、息を詰めてただただ男の腕の中におさまっていた。
 これだけ距離が近ければ、さっき吸ったタバコの匂いもきっと届いてしまっているだろう。だが、男はそれについてすらなにも言わないまま、固くしげるを抱き締めていた。
 こんな玄関先で。ドアを開け放ったままで。普段なら、周りの目を気にして、ぜったいにこんなことしないのに。
「カイジさん」
 しげるは男の名を呼び、両掌をそっと背中に触れさせる。男の体はうすく汗ばんでいて、シャツが冷たく湿っていた。
 しげるは居心地悪そうにその腕の中で身じろぐ。思いがけないカイジの反応に、調子を狂わされた。怒鳴られたり叱られたりするほうが、まだマシだった気さえした。
「離しなよ……あんたまで汚れちまうぜ」
 自分が薄汚れていることを思い出し、しげるが離れようとすると、それを阻止するように、より強く抱き竦められる。
「最近の洗剤なめんなよ。こんなもん、汚れた内に入らねえ」
 おどけたように言うカイジの声は笑っていて、でもすこしだけ鼻声なのを、しげるは聞き逃さなかった。

 緩く息を吐いて目を閉じ、しげるは両腕を広い背に回す。

 体も命も、なにひとつ惜しいと思ったことなどない。
 だけど今夜だけは、この体を力いっぱい抱き締め返す腕が残っていてよかったと、しげるはほんのすこしだけ、そう思った。






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