てのひら いちゃいちゃ



 体にねっとり纏わりつくような暑さに身じろぎ、ふと目を覚ましたカイジの視界に飛び込んできたのは、シーツに埋もれ、まっすぐに伸びた白い腕。
 ぼんやりと瞬きをしながら、自分の頭の下敷きになっている不慣れな感触の正体に気づいて、寝惚けたカイジの目が一気に目が冴え渡った。

 反射的に寝返りを打ち、隣を見ると、本来カイジが使うはずの枕に頭を沈め、アカギが静かな寝息をたてている。
 そして、その肩から二の腕辺りが、カイジの頭の下にある。
 つまり、カイジはアカギの腕を枕にして、今までスヤスヤ眠っていたのだ。
(腕枕……)
 カイジの背中を、つうと嫌な汗が伝った。

 昨夜どんな風に寝入ったのだか、カイジはよく覚えていない。
 アカギと酒を飲み、セックスしてシャワーを浴びたら、日頃のバイト疲れまでもが思い出したように襲いかかってきて、碌に髪も乾かさぬまま縺れるようにベッドへダイブした……ところで、記憶はブツリと途絶えている。
 そして目を覚ましたら、この状況である。

 野郎が、野郎に。
 腕枕。
 たまんねぇ……、どんな地獄絵図だよとカイジはひとり身悶える。
 野蛮な行為に体を開くのは平気なのに、こういう、普通の恋人同士がやるようなことはむず痒くて、カイジにはとても堪えられないのだった。

 カイジは目の前のアカギをキッと睨む。
 両の瞼はしっかりと閉じ合わされていて、そこから伸びる疎らで短い睫毛が、呼吸に合わせてときどき揺れている。
 よく眠っているようだ。叩き起こしてまで腕枕を止めさせるのも気が咎めて、仕方なく、カイジはもぞもぞと体を反転させ、アカギに背を向けた。
 目覚めたときと同じ体勢になり、右耳をアカギの腕に押し当ててまっすぐに伸びた腕を視線で辿る。
 その先にある手首と、掌。
 すっかり飛んでしまった眠気がふたたび訪れるまでの暇つぶしにと、カイジはアカギの右手を取ってみる。

 共寝する仲になって久しいが、こうして恋人の手をまじまじと観察する機会などなかった。
 長くまっすぐな指。扁平な形の爪。筋張った手の甲には青い静脈が幾筋も走っていて、皮膚の薄さを感じさせる。
 至って普通の、男の手だ。これが自在に牌を操り、あの奇跡のような闘牌を繰り広げるのだということが、カイジには俄に信じがたくなる。

 甲側を一頻り眺めたあと、カイジはアカギの手をそっと裏返してみる。
 掌という部位は、普段陽に当たらない分、膚の白さが特に際立って見える。
 その白い掌に、カイジは陽に灼けた己の指を滑らせてみる。まるでまったくべつの種類の生き物みたいな、色のコントラスト。益々アカギの掌の白さが映え、改めてはっとするほどだった。
 
 カイジの知る限り、この掌は常に乾いていて、どんなときも一定の温度を保っている。
 冷戦沈着な掌。勝負の中でなら、緊張に湿ったり、熱くなったりすることがあるのだろうかと、カイジはぼんやり思う。

 緩く開かれた掌の中に、縦横無尽に走る幾多もの線。
 赤木しげるの手相なんて普通、そうそう拝めるものじゃない。
 カイジは熱心にアカギの掌を眺めたが、もともと手相に興味なんてないから、生命線くらいしかわからなかった。

 親指と人差し指の間から伸びる、緩やかな左下がりの曲線は、びっくりするほど短くもなく、だからといってものすごく長いわけでもない。
 特別に濃いわけでも薄いわけでもなく、カイジの目には拍子抜けするほど普通の生命線のように映った。

 人差し指を掌に立て、カイジはその線をゆっくりとなぞってみる。
 これが本当に命の長さを示す線なのだとしたら、この線の、いったいどのあたりにコイツは今いるのだろう。
 そんなことを考えながら辿っていくと、下へ行くに連れ線は徐々に薄くなっていき、ついには儚く途切れてしまう。
 カイジはそこで指を止め、消えた細い線の先をじっと見つめる。
 ここが、この男の命の終わり。人生の終着点。
 当たり前のことだが、赤木しげるにもいつか死は訪れるのだ。
 その時、自分はどこで、なにをしているのだろうとカイジは思う。
 今と同じように、アカギの傍にいるのだろうか。
 あるいは、とっくの昔に死んでる?
 どんな想像をしてみても、まったく現実味がない。
 今隣にいる男の死に様だって容易に想像できるはずもないのだから、それは当然のことだと言えた。


 途切れた生命線の先、数センチ下に手首があって、カイジはそこに指を滑らせる。
 皺の寄っているあたりを軽く押さえてみると、皮膚の奥深くから、規則的で力強い脈動が感じられる。
 なんとなくほっと息をつき、カイジはそこから指を離そうとしたが、その時、白い掌が急に動いて、カイジの指先はぎゅっと掴まれてしまった。
 カイジは軽く目を見開き、首だけで振り返ってアカギの顔を見る。
「……起きてたのかよ」
「起こされたのさ、あんたに」
 まだ重たげな切れ長の双眸を細め、アカギはクク、と喉を鳴らした。
「妙なことしてるから、誘われてんのかと思った」
「アホか。おめでたいヤツ」
 カイジはすぐさま毒づいて、掴まれた指を振りほどくようにしてアカギの手から抜け出す。
 ついでに腕枕から頭を落とすと、アカギはおとなしく手を引っ込めた。
 カイジは体ごとアカギの方に向き直ると、不機嫌そうな顔でアカギに言う。
「お前、こういうのやめろよな」
「こういうの?」
 本気でわからない、という風に問い返され、カイジは腹立たしげにチッと舌打ちした。
「だから、こういう……腕枕、とか……」
 ぼそぼそと言葉尻を濁すカイジに、アカギはひとつ瞬いて、それからニヤリと笑う。
「照れてるの?」
「は? ……違ぇよボケ! 虫酸が走るからよせっつってんだっ……!!」
 すぐ赤くなって噛みついてくるカイジに、アカギは笑みを深め、からかうように言った。
「で、どう? やたら真剣に見てたけど、手相でオレのこと、なにかわかった?」
 その段階から既に見られていたのかと、カイジはますます頬が熱くなるのを感じる。
 背を向けていたからわからなかったが、コイツさてはずっと起きてやがったなと、カイジは逆恨みのようにアカギを睨みつけた。
「……お前がめちゃくちゃ性格悪いってことだけわかったよ。とっくの昔に知ってたけど」
 罵られ、アカギは愉快そうにゆったりとした笑いを漏らす。
 それからなにを思ったか、つと手を伸ばしてカイジの手を掴んだ。
 そのまま引き寄せ、さっきカイジがしていたのと同じように掌の中をしげしげと眺める。
 怪訝そうな顔をするカイジに一瞬だけ視線を投げ、アカギはそこへ顔を寄せた。
「アカ……、」
 咎めるように名を呼ぼうとしたカイジの声は、掌に押し付けられたぬるりと生温かい感触に途切れてしまう。

 アカギはカイジの掌の中、緩やかなカーブを描く生命線を尖らせた舌で辿る。
 戯れに、さっきされたことの仕返しをするように。

 カイジの手はいつも陽に灼けていて、だいたいはまるで子供のように熱く湿っているのが常だ。
 過酷な肉体労働の経験があるせいか、手の皮は意外と厚く硬く、全体的に無骨な手だった。

 なにもかもが自分とは正反対のその手の中の、命の長さを表す線を、アカギは慈しむように舌先でなぞる。
 とても人間らしい味がした。地を掴み、嵐のような逆境の中で勝利をもぎ取るのに相応しい手だとアカギは思う。
 カイジの手がなにかを訴えるように、ぴくりと震える。
 アカギは目を伏せたまま口端を上げ、途切れた生命線の先、手首まで濡れた線をつける。
 静脈の浮き出るそこに軽く歯をたて、しばらくしてから顔を上げると、なんともいえない表情で己の挙動を見守っていたカイジと目が合った。
 アカギがふっと唇を撓めると、カイジは思い切り深く眉を寄せる。
「誘惑するんだったら、このくらいはしてほしかったな」
「だから、違うっつうの……!」
 アカギの軽口に言い返し、カイジは掴まれたままの手を引っ込めた。

 アカギの舌で辿られた生命線から、手首にかけてうっすら濡れて光っている。
 当たり前だが、さっき見たアカギのものとは、長さも濃さもまったく違う線。
 それをじっと眺めたあと、カイジはアカギの顔に目を移す。
「どうしたの」
 平板な声で問いかけてくる、その男の未来の姿を想像してみようとする。
 皺の寄った顔を、枯れた声を、歳を重ねてもなお鋭い瞳を。
 だけどやはりうまくいかなくて、カイジは軽くため息をついた。
「なんでもねぇよ」

 いつかこの男に死が訪れるとき、自分は果たしてこの男の傍にいるのだろうか。
 今は、わからない。でも、そうなればいいな、と思う。明日晴れればいいな、と思うのと同じくらいの軽さで、カイジはそう思う。

 カイジは手を下ろし、アカギの手を探る。
 乾いた指に指を絡めると、アカギがまた笑った。
「やっぱり、誘ってるでしょ。あんた」
 揶揄する声など無視して、掌と掌をぴったりと合わせる。
 絶対に重なり合わない互いの生命線を、無理やり重ね合わせるようにして、カイジはアカギの手を強く強く、握り込んだ。







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