三人 アカカイ中心に三世代×カイジ メルヘン



 なんとなく流し見していたバラエティー番組が終わり、テロップが流れ始めたところでカイジは時計を見た。

(遅ぇ……)

 時刻は深夜二時を回っていて、自然、眉間に皺が寄る。
 待っても待っても、来ると言ったはずの男は現れず、時を追うごとに呑み干したビールの缶が机の上に積み重なっていく。その量はそっくりそのまま、募るカイジの苛立ちを示していた。
 ポテトチップスの袋に手を突っ込み、惰性のようにして口へ運ぶ。沸々と煮え滾る感情に任せて荒々しく噛み砕き、まだ大きい欠片ごと喉奥へ流し込むようにビールを一気呑みする。

 つまみも酒も、アカギが来るまで開けないでおこうと、最初のうちは心に決めていた。だけど約束の時刻を二時間過ぎたあたりでどうでもよくなって、結局手をつけてしまった。
 あとはイライラに任せて呑み食いし続け、気がついたらビールは最後の一缶を開けてしまい、つまみも食い散らかしたあとの残りかす程度しか残っていない。
 最後のビールを飲み干してしまい、カイジは、ひっく、としゃっくりをする。それでもアカギは現れず、カイジは空き缶を手の中でぐしゃりと潰し、無造作に転がした。
 憤怒を逃すように盛大なため息をつきながら、己の腕を枕に卓袱台へ突っ伏す。卓の上に山積みになっていた空き缶がいくつか転がり落ちたが、構わず顔を伏せた。

 アカギが時間にルーズなことも、遅れるからって連絡のひとつも寄越さない男なのもわかっている。
 わかっているけど、そのことに簡単に慣れられるかというと話はべつだ。神や仏じゃないのだから、怒りだってそりゃ沸くし、心配にもなる。
 だけどそれを指摘したって無駄だ。あいつは野生動物みたいなヤツなんだ、説いたところで聞きやしない。それは本人に悪意があるということでは決してなく、言わば性質の問題。成熟した野生の獣に芸を教え込むようなもので、そんなの徒労に終わるに決まっていた。
 結局、カイジは怒りも心配も抱え込んで己の中で消化するしかなくて、そのことにいちばんウンザリしているのだった。

 瞼で景色を遮断すると、すぐに眠気が襲ってくる。
 ひとりきりでふたり分も呑んだから、知らず知らずのうちにすっかり酔っ払ってしまった。
 不貞寝を決め込むのは負けた気がしてなんとなく癪だったけど、とろとろと神経に纏わりついてくる睡魔に勝てるはずもない。
 渋い声の男性アナウンサーが、定時のニュースを読み上げている。その声を子守歌代わりに、カイジは睡魔に身を委ね、意識の遠のくままに任せた。






「……こんなところで寝てたら、風邪ひいちまうぞ」
 夢うつつの中、誰かの声がカイジの耳に届いた。
 テレビの中からじゃない。それよりずっと近い距離で鼓膜を揺する、微かに嗄れた低い声。
「カイジさん」
 もうひとつ、先の声よりすこしだけ高いトーンがカイジを呼ぶ。済んでいて濁りのない、真水みたいに全身へと染みわたる声。
 どちらも聞き覚えがあるようなないような、掴み所のない曖昧さを含んだ声だった。部屋の中に自分の知らない誰かがふたり居て、己に話しかけている。すぐ傍に、人の気配も確かにあった。
 だけど、ふわふわとした眠りの中を漂うカイジは瞼を持ち上げることができない。寝ている間に知らない人間が部屋の中に入り込んでいるというのは、常識的に考えればかなりの異常事態なのだが、カイジは飛び起きたりしなかった。
 不思議なことに、危機感なんてすこしも感じなかった。心と体が、この状況をすんなり受け入れているかのように、安心しきった心地で眠りの淵を彷徨い続けていた。

 横から覗き込まれ、ふっと笑われる気配がする。
「……相当、鬱憤溜めてんなぁ。しょうがねぇ奴だ、あいつも」
 くつくつと、喉に声を引っかけるような笑い方を、カイジは耳に心地よく感じる。
「あいつなんかより、オレの方がよっぽど大人だよ。オレならこんな風にカイジさんを、待ちぼうけさせたりしない」
 よく通るまっすぐな声で呟かれた言葉を、
「どうだか」
 笑いを含んだ嗄れ声がやさしく撥ねつける。
「……あんたと違って若いから、この人を置いていったりもしないし」
 若い声がややムッとした響きを帯びる。それを受け、もうひとりが柔らかく声を緩ませて言った。
「それもどうだか。……所詮、同じ人間だからな、俺たちは」
 その声を最後に会話は途絶え、ごく僅かな沈黙が落ちる。
 ふたつの視線が自分にまっすぐ注がれるのを、カイジはぼんやりと感じていたが、居心地の悪さはなかった。

「それにしても」と、沈黙を破ったのは年嵩な方の声だった。
「よりにもよってあの歳の、あいつと出会っちまうはなぁ。これからもきっと、苦労するぜ、お前」
 心底同情するみたいに囁き、カイジの寝汗で濡れた髪が、労るような手つきで梳かれる。指先に染みついているのか、男の吸っているらしいタバコのにおいが近くなる。
 カイジ自身よく馴染みのある、マルボロのにおい。
「それは、あんたと出会ってたって変わらないでしょ」
 若い声にぴしゃりと言われ、「そうか? あいつよりはずいぶん、マシだと思うがなぁ」と、嗄れ声が苦く笑う。
「……もうちょっとだけ、早く会えたら良かったのに」
 悔しそうな呟きに、カラカラと笑う声が重なる。
「まぁ、言ったってせんのねぇことだよな。こればっかりは。いいじゃねえか。なんだかんだで、うまくやってるみてぇだし」
 暢気に間延びした口調で言って、声の主はカイジの頭をわしゃわしゃと撫でた。
「じゃあな、カイジ。いつかまた、どっかで会えるといいな。そん時は、お前もジジイになってるか」
 カイジの左耳を覆う髪を掻き上げ、もうひとつの声が、息を吹き込むような熱心さで囁く。
「さよなら、カイジさん。不本意だけど、あいつの中にオレはいるから。そのこと、できたら忘れないでね」
 耳に乾いた感触が触れ、すぐに離れていく。
「そろそろ、あいつが来ちまうな……ちょっと名残惜しいが、行くとするか」
 その声を合図にしたように、ふたつの気配は揺らめきながら、ゆっくりと遠退いていく。
 夢と現実がマーブル状に混ざり合うような、混沌の中を漂いながら、カイジはなんとか起きようと藻掻いたけれど、体はぴくりとも動かない。
 その代わりに、水底から引き摺り上げられるように意識が浮上する。体に伝わる、肩を揺すられる振動。それが引き金となり、カイジははっきりと目を覚ました。



 覚醒してまず目に入ったのは、テレビに映し出されるカラーバー。続いて、単調な信号音が耳に飛び込んでくる。
 ピントが合わずにぼんやりと暈ける目でなんどか瞬きをしたあと、カイジは今、ようやく目覚めたことを自覚した。

 ふっと隣に目を遣って、己の肩を揺すっていた男の顔を見る。
 男ーーアカギはカイジの顔をじっと覗き込んで、憎たらしいほど冷静な声で、
「カイジさん……よだれ」
 開口一番、そう言った。
 はっとして、カイジは慌てて己の口許をゴシゴシと拭う。拭ってから、はたと自分が寝入る前の状況を思い出す。
 机の上に散乱した空き缶の山を見て、自分が不貞寝した原因が、他ならぬ隣にいる男だということを思い出した。
 だが、いつもなら寝起きであろうともお構いなしにマグマの如くこみ上げてくるはずの怒りが、今日はおかしいほど凪いでいる。
 夢とうつつの間を未だ泳いでいるような、不思議で茫洋とした感覚だった。自分の顔を見るアカギの顔を、今度はカイジがじっと見返す。間近で穴が開くほど見つめられ、アカギが珍しくたじろいだ様子を見せた。
「……なに? 寝ぼけてんのか、あんた」
 抑揚のすくない、耳触りのよいテノール。
 その声を耳にした瞬間、カイジは朧気に思い出した。

 さっきまで見ていた夢のこと。ふたりの人間に見守られながら、浅い眠りを漂う夢。
 醒めた今では輪郭すら掴めないほどぼんやりとして、ふたりの会話の中身すら霞がかって消えそうなのに、奇妙なほど現実味を帯びた、夢の中の夢のこと。

 瞬きするごとに遠くなってしまう、その夢のしっぽをなんとか掴もうとして、カイジは食い入るようにアカギの顔を見つめる。そうすることで、なにかを手繰り寄せることができる気がしたからだ。
 しかし、掴み所のない夢の余韻はするりとカイジの手をすり抜け、あっという間に意識の彼方へと逃げ去ってしまう。
 気がつけばもう、掴もうとしても掴めない。伸ばした指が虚しく空を掻くような感覚に、カイジは軽くため息をつく。
 それから、目の前でやや面食らっているアカギの顔を改めて見たとき、ああ、そうか、となにかが心にストンと落ちてきた。
「夢、見てた」
「……夢?」
 唐突なカイジの言葉に、アカギは怪訝そうに聞き返す。
 カイジはゆっくりと頷き、
「ガキのお前と、年寄りのお前が出てきたよ」
 そう、言葉にしたとたん、それははっきりと確信に変わった。

 あのふたりは、十九の己に振り回されて不貞寝するカイジを見兼ねてやってきた、他ならぬ赤木しげる自身だったのだ。
 もしかすると出会っていたかもしれない赤木しげると、これから出会うかもしれない赤木しげる。それから今、目の前にいる赤木しげる。
 我ながら、なんて都合のいい夢、都合の良い解釈なのだろう。しかも未だ、完全にそれを単なる夢だと思い切れないでいる。心のどこかで、もしかするとあれは、現実だったんじゃないかって思ってる。
 そんな己に呆れ、カイジは思わず、ふふ、と笑いを漏らした。

 愉しそうなその笑顔を見て、ムッとした顔になるアカギの様子になどまるで気づかずに、カイジは気に入りの歌を口ずさむような、弾んだ口調で続ける。
「どっちも、いい男だったなぁ……いや、姿は見てねえけどさ。声だけでもわかったよ。見たかったな、まったく違う歳のお前」
 しみじみと呟いて、「いい夢だった」と自己完結するカイジに、置いてけぼりを食らったようで、アカギはますます眉を寄せる。
「……悪かったよ」
 はー、とため息混じりにアカギは謝る。
 だが、カイジはきょとんとした顔で、「へ? なにが?」と聞き返した。
 それがただの夢であっても、年は違えど自分自身の仕業であったとしても、他の誰かのお陰でカイジの機嫌が良いという事実がなんとなく面白くなくて、十九歳のアカギは「なんでもねぇよ」と呟いて、拗ねたようにそっぽを向くのだった。






 

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