夏の虫ども



 頭上から、バチ、バチ、となにかが爆ぜるような音が降ってきて、アカギの意識は浮上した。
 目線を上げると、青白い誘蛾灯にたくさんの虫がたかっている。
 無数のちいさな羽虫の群れと、その隙間を縫うようにして飛ぶ二匹の蛾。青白い灯に体当たりして体を灼かれながら、なんどもなんども、愚直にそこへぶつかっていく。

 その様子を暫し、ぼんやりと眺めたあと、アカギはゆっくりと周囲を見渡した。
 建物と建物の隙間、湿った路地。生ゴミの饐えた臭い。
 電柱や壁に競うようにして貼り付けられている、風俗や消費者金融の怪しいチラシたち。見慣れぬ風景だが、どこの街にも似たような場所はある。

 壁に背を預けて座り込んだまま、アカギはまず、右腕を検分する。関節ごとに何度か曲げ伸ばしし、指先の一本一本まで慎重に動かしてみる。幸いにして、利き腕はほぼ無傷だ。だからこそ今、こうして生き永らえているのかもしれないとアカギは思う。
 次いで、左腕も同じように動かしてみると、前腕部に激痛が走った。恐らく、橈骨が折れている。こちらは、まともに動かすことはほぼ不可能だろう。
 そんな風にして全身を動かし、アカギは自分のコンディションを把握していった。体のあちこちに損傷はあるが、まったく動けないというほどではない。ここでもし、なにかことが起こったとしても、対処次第でなんとか逃げ果せるくらいの余裕はあるだろう。

 ポケットから拉げたタバコのパッケージを取り出し、緩慢な動作で一本咥えながら、考える。いったいどのくらいの間、ここで気を失っていたのだろう。体感としては、そんなに長い時間ではない。それならば、一刻も早くここを離れた方が良さそうだ。
 タバコに火を点けるのを止め、アカギは気怠げに左脚を動かす。そして、自分の傍ら、斜め前にぐったりと倒れ臥している男の頭を、革靴の爪先で軽く蹴った。
「そろそろ起きな、カイジさん……置いてくぜ?」
 声をかけつつ足で黒い頭を小突いていると、やがて低い呻き声とともに、男が身じろぎした。
「うぅ……ってぇ〜……」
 ほんのわずか、体を動かした拍子に痛みを訴えて背を丸める。アカギ同様、カイジも体を損傷していることは間違いないのだが、その度合いは自分よりもカイジの方が酷そうだとアカギは瞬時に見て取った。
 濡れた不衛生な地面の上で、芋虫のようにうごうごと身悶えたあと、カイジは急に、バネのようにガバリと起き上がった。
「アカギっ……!!」
 焦ったような表情で上げられた顔の、右瞼は大きく腫れ、ほとんど開いていなかった。
 残った左目を大きく見開いてアカギを認めると、カイジはほーっと安堵の息を吐いて全身から力を抜く。
「い、生きてたのか……よかった……」
 心の底からそう呟くのと同時に、一瞬忘れていた痛みを思い出したのか、カイジはふたたび顔を顰めて呻く。
「他人の心配より、自分の心配したらどう?」
 自分のことは二の次にする、この人の性格は恐らく一生変わらないのだろうと思いながら、アカギはふたたび地面に崩れ落ちようとするカイジの肩を掴み、体を起こしてやる。
 アカギと同じように壁に凭れ、カイジは苦痛に顔を顰めた。
「体、動かせそう?」
 アカギに言われるまでもなく、カイジは先ほどのアカギと同じように体の部位をひとつひとつ動かしていた。
 やはり損傷はかなり酷いと、その様子を傍らで見ながらアカギは判断する。内臓まではやられていないようだが、どうやら右足の骨にヒビが入っているらしい。完全に折れていないのが不幸中の幸いと言えたが、恐らくひとりでは立ち上がることすらままならないだろう。
 本人も状況の深刻さを理解しているのか、大きくため息をつくと、潰れていない左目でアカギの方へじっとりとした目線を送る。
「……お前といると、マジ、碌なことがねぇな」
 投げつけられた言葉に、アカギは眉をピクリと上げて言い返す。
「その言葉、そっくりそのままお返しするよ」
「はぁ?」
 心外だ、と言わんばかりに大きな声を上げ、カイジは太い眉を思い切り顰める。
「さっきのアレは、お前の追っ手だろうが」
「決めつけるなよ……、あんたの方じゃないの?」
「オレ、あんな連中に見覚えはねえぞ」
「オレだって」
 互いに責任をなすりつけあうような、どうでもいいやり取りをぐだぐだと続ける。
 正直なところ、お互い心当たりがありすぎてわからないというのが本音なのだ。有象無象に襲われたあと、傷だらけの体でこんな軽口を叩き合うのは最早ふたりにとって日常茶飯事で、言わば一種のスキンシップのようなものだった。
 犬の子が、互いを甘噛みしながらじゃれ合っているのと同じ。アカギの頬に微かな笑みがのぼり、カイジはますます渋面になる。
「痛がってるとこ悪いけど、そろそろここを離れたほうがいいと思う」
「……わぁってるよ」
 よほど強い恨み辛みがあるのか、執念深く自分たちを追ってきた男たちの様子を思い出し、うんざりしたような顔になるカイジを横目に、アカギは痛みに顔を歪めながらも、時間をかけてゆっくりと立ち上がった。
 結局火を点けずじまいだったタバコを地面に吐き捨て、カイジに向かって手を差し伸べると、すぐに掴まれる。
 腕を引っ張り上げ、傾いだ体に腕を回して支えながら立たせてやった。

 自分たちをこんな目に遭わせたのがどちらの追っ手であろうとも、負傷して足手纏いになろうとも、ふたりは互いを見捨て、あるいは自分から離れたりしようなどと考えたこともなかった。
 お人好しのカイジはまだしも、アカギにとってそんな風に思う存在が現れようとは、本人すら予想だにしていなかったことだった。

 昔。
 自分の傍にいたら、とばっちりで火の粉がいくこともあると、人に諭したことがあるのを、アカギはふっと思い出す。
 あの実直そうな青年は、今どうしているだろうか。唐突にそんなことを思いつつ、アカギは苦しみに脂汗を流す隣の男を見る。

 ふたりの頭上には、青白い誘蛾灯。
 それが自らの命を奪う光なのだとわかっていないのか、わかっていても本能に逆らえないのか、愚かにもそこを飛び回り続ける二匹の蛾。

 この男だから、自分はこんなにも一緒に居るのだとアカギは思う。それは相手もきっと同じだ。

 降りかかる火の粉など、もとより気にしない。むしろ自ら進んで燃え盛る猛火のなかへ、飛び込んでいこうとする筋金入りの阿呆ども。

「なに、笑ってんだよ……」
 カイジのぼやく声に、アカギは口許を撓ませたまま答える。
「オレたちは似たもの同士だな、と思って」
「……あ? 似てたまるかよ……お前みたいな狂人と」
 吐き棄てるような口調に、『お互い様だ』と心の中だけで揶揄し、アカギはカイジの体をしっかりと支え直すと、一歩足を踏み出した。





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