三分



 普段の言動から鬼だの悪魔だのと囁かれているが、それは単なる例えなのであって、赤木しげるは無論、歴としたただの人間である。
 人間であるからには、人並みの生理的欲求もある。それは水で伸ばしたように薄く、凄まじく偏っているけれども、まあ普通に飯は食うし睡眠も取る。そしてもちろん、性欲だってある。

 十九歳。一般的なその年頃の青年よりは断然、肉欲というものが希薄なのは確かだが、かといって皆無というわけではない。
 特に、恋人が目の前で湯上がりの濡れ髪を曝しているなどという、据え膳もいいとこな状況下においては、いかな常人より欲が薄いアカギであろうと、官能を刺激されぬはずなどないのである。


 三ヶ月近く前に会ったきりだった恋人は、アカギが訪ねたときちょうどシャワーを浴び終えたところだったらしい。暑がりなので、前に会ったときは春先でも半袖のシャツを寝間着にしていたのだが、今日は黒のタンクトップに、膝が隠れるくらいの長さのゆったりとした半ズボンを穿いている。
 日焼けしている顔や腕との対比で、陽に当たらない肩周りや足がやけに白く見える。たったそれだけのことにすら、アカギは欲望を掻き立てられた。
 なにせ、三ヶ月ぶりなのだ。今すぐに押し倒して思うさま啼かせてやりたいと、欲望に濁った目でアカギが自分の姿を追っていることにも気付かぬ様子で、恋人は首にかけたタオルで髪を拭きながら、胡座をかいてのほほんとビールなど飲んでいる。
「カイジさん」
 名前を呼んで、アカギは手を伸ばしかける。だが、カイジは眉を寄せ、アカギを制した。
「さっき、待てっつったろうが。オレは腹が減ってるんだよ」
 ぴしゃりと言われ、アカギの眉間には深い皺が寄る。
 なにか言おうとアカギが口を開きかけるのとほぼ同時に、ピーーッとけたたましい音が部屋の奥から鳴り響いた。
「おっ、沸いた沸いた」
 カイジはいそいそと立ち上がり、台所へ消える。
 しばらくすると音は止み、ヤカンを片手にカイジが戻ってきた。
 ふたりの間にある卓袱台。その上に堂々と鎮座するのは、一個のカップラーメン。カイジはヤカンを置くと、『大盛り』という文字が大きく躍る蓋をペリペリと剥がす。そして、中に熱々の湯をたっぷりと注いだ。
 もうもうと立ち上る白い湯気の匂いに目を細めつつ、剥がした蓋を閉めてその上に割り箸を置く。
 時計にチラリと目をやってから、ちいさくため息をついた。
「この三分が、果てしなく長いんだよな。腹減ってると」
 パチンコしてるときは三時間だってあっという間なのに、とか、どうでもいいことを言いながらダラリと頬杖をつく。
 薄く汗ばんでいる体。暑さでうっすら上気した頬を、こめかみから流れ落ちた汗が伝い、傷に沿って流れていく。煩わしげにそれを拭いながら、喉を反らして缶ビールを飲む。上下する喉仏。露わになった汗をかきやすい首許は、細かな汗の粒が浮かび、しっとりと濡れていた。

 そんな光景を目の当たりにしながら、手を出せないアカギはカイジを対面からじっと睨みつける。

 飢えてるのは、あんただけじゃないんだぜ。
 三分が長いというなら、その上さらにあんたがそれを食い終わるまでお預け食らうオレはいったいなんなんだ?

 恨むような気持ちでカイジを見るアカギ。だがカイジの視線は、卓袱台の上のカップ麺に釘付けになっている。
 よほど腹が減っているのだろう。待ちきれないといった風に子供のような顔で三分過ぎるのを待つカイジは、アカギの存在など忘れてしまったかのようで、アカギはカイジと同じように頬杖をつき、苛立ちに軽く舌打ちする。
 すると、その音に反応してカイジが目線を上げた。やや上目遣いになった三白眼に、またしてもムラッとさせられるアカギをじっと見て、カイジは不思議そうな顔で目を瞬かせる。
「なんだよ、お前も腹減ってんの?」
 どうやらアカギの飢えた目線の意味を、空腹によるものだと捉えたらしい。ますます渋面になるアカギに、カイジはカップ麺を指さして言う。
「お前も食うなら、もう一個持ってくるけど」
 アカギは仏頂面のまま、黙って首を横に振る。そうか、と呟いて、カイジはビールをくいっと飲み干す。それから、また頬杖をつき、アカギのしかめっ面を覗き込むように見て、堪えきれないという風にくっくっと喉を鳴らし始めた。
「……腹空かせた獣みたいな面しやがって。お前、そんなにオレとやりてえのか」
 優越感に満ちた声音。
 カイジはとっくに気がついていたのだ、アカギがひどく欲情しているということ、飢えた目線の意味。その矛先が自分に向かっていると知りながら、ずっと気づかぬフリをして、焦れるアカギの様子を愉しんでいたのだろう。
「……」
 なんとも言えず沈黙するアカギに、カイジはますます愉しそうな顔をする。
「オレがこれ食い終わるのなんて、あっという間だぜ? それでも待てねえか」
「待てない」
 間髪入れずにアカギは答え、カイジは声を上げて笑った。珍しく自分が優位なのが、愉しくてたまらないのだろう。
 ひどく癪だったが、こういう時はつけ上がらせておくのがいちばんなのだとアカギは知っている。あとで死ぬほどヒイヒイ言わせてやる、と苦虫を噛みつぶしたような顔で考えるアカギに目を細め、カイジはカップ麺を指先でつつきながら言った。
「そんなにやりてえなら、これ、できあがるまでにオレのこと、口説き落としてみろよ」
 ゆっくりとした言い方で挑発され、アカギはピクリと片眉を跳ね上げる。
「ーー言ったな」
 オレに三分も与えたこと、後悔させてやる。
 獲物を狙うような獰猛さで目を光らせるアカギと、カップ麺を挟んで対峙しながら、カイジはやはり、愉しげに笑うのだった。





[*前へ][次へ#]

10/35ページ