小雨のそぼ降る中、訪れた安普請のアパート。
 コツコツと音をたて、アカギは扉を叩く。
 だが、しばらく待っても家主は顔を出さず、アカギは諦めて踵を返した。

 このところ、一週間ほど続けてアカギはこの部屋を訪れているのだが、こんな調子で常に留守なのだった。
 こんなにも連日空振りなのは、初めてのことだ。タイミングが合わないだけなのか、はたまたなにかべつの事情があるのか。
 普段の家主の、バイト先と家を往復するような生活ぶりを鑑みるに、単にタイミングの問題だとは考えにくい。
 きな臭い匂いが、鼻先を掠めた気がした。

 同じ博徒だからわかる、あの男は引き寄せるのだ。大金のにおい、危険なギャンブル、厄介なものごと。本人に自覚はないだろうが、あの男の魂がそういうものに飢えているからこそ引き寄せる。
 今回の長期不在も、きっと男が無意識に招いたなんらかの出来事に巻き込まれたのだろう。或いは、自ら首を突っ込んだのかもしれない。いったいどこでなにをしているのやらと、アカギはぼんやり思う。
 男の身を案じたりはしない、そう簡単にくたばるはずがないと確信しているからだ。それは根拠のない自信ではなく、男と短くない時をともに過ごしてきて、土壇場で冴え渡るその資質を熟知しているからこそ言えることだった。




 錆びた階段を下り、雨の中を歩く。
 じきに夜が明けるという時刻だが、東の空は暗いままだ。今日は一日、ぐずついた天気が続くのだろう。

 烏が数羽、電線の上で小雨を浴びながらじっと地上を見下ろしている。
 このあたりは烏が多いのだ。この程度の雨なら、鳥類は活動を止めたりしない。
 空を見上げれば、曇天の濃い灰色に溶け込むような黒いシルエットがいくつか羽ばたいている。雨のせいだろうか、普段のようにやかましく騒ぎ立てる声はあまり聞こえない。それが却って不気味だった。








 すこし、歩いたところで、アカギは足を止めた。
 背中を丸めて俯き、自分の方に向かって歩いてくる男の姿が目に入ったからだ。
 アカギ同様、傘もささずに歩くその男は、紛うことなくあの部屋の主だった。草臥れた黒い半袖のシャツに、よれよれのジーンズ。ポケットに両手を突っ込んで歩く男の表情は、俯いているせいでよく見えない。地面ばかり見ているせいで、アカギの存在にも気がついていないようだ。どれだけの長い間この雨の中を歩いていたのだろう、長い髪は濡れそぼり、頭の形に沿ってずしりと重たげに垂れている。


 ふらついている足取りに、濃い疲労の色が見られる。
 アカギは習性として傘を持たないが、男はそうじゃない。たぶん、家を出るときには雨が降っていなかったのだろう。今週はずっと雨続きだから、恐らく男が家を出たのは一週間以上前のことだと推測できる。

 一週間もの間、家にも帰らず傘も買わず、男がいったいどこでなにをしていたのか、アカギは知る由もない。しかし、なにか穏やかならぬ事情があったのだということは、男の様子から明らかだった。
 惨めに雨に打たれ歩くことが、これほど似合ってしまう男も他に居まい。みすぼらしく濡れた黒い捨て犬のようなその男に、アカギは呼びかけた。

「ーーカイジさん」

 弾かれたように、男が顔を上げる。
 明らかになったその表情を見て、アカギはわずかに目を見開いた。


 濡れた前髪の隙間から覗く三白眼はギラギラと光り、鋭い眼差しがアカギにまっすぐ斬り込んでくる。
 真一文字に引き結ばれた唇の端には、赤く血が滲んでいる。その顔はひどく汚れ、細かな傷や痣が無数に散らばっているのだが、その印象が霞んで消えてしまうほど、強い面差しだった。
 暴れ狂う闘気そのもののような男の表情が、『みすぼらしく濡れた犬』という印象を、一瞬にしてガラリと変化させる。

 濡れ羽色の髪と瞳。知性に鋭く光る眼差し。雨の中で今にも飛び立たんと羽を震わせる、一羽の黒い鳥。
 男の真上、空を走る電線の上には烏の群れ。不吉さと神聖さを併せ持つその鳥に、男は酷似していた。

 言い知れぬ感覚が背筋を這い上るのを、アカギは感じていた。
 まるでスイッチが切り替わるかのように、表情ひとつでこんなにも印象の変わる男を、他に知らない。男の放つ存在感が、湿った空気をピリピリと震わせる。それをまさに膚で感じながら、アカギは男から目を離せずにいた。





 男はアカギの顔を見て、その瞳をひとつ、瞬かせる。
「ーーなんだ。お前かよ」
 そう言ってため息をつくと、興味を失ったかのように目を逸らした。ぴんと張りつめていたものが急激に弛緩し、闘気の抜け落ちた男はふたたび濡れた犬の印象に戻る。
 魔法が解けたかのような変わりようだった。なんだかすこしがっかりしている自分に気づき、アカギは苦笑する。

 瞼の裏側にくっきりと焼きつくような、苛烈な眼差し。それは長く尾を引く勝負の熱気が垣間見せた、男に眠る資質そのものだったのだろう。
 この一週間、男になにがあったのかは知らない。しかし、決して生易しい日々ではなかった筈だ。その中で、男はきっと先ほどのような知性の輝きを放ち、闘い続けていたのだろう。
「なんか、妬けるな」
 アカギは思わず呟く。
 それが、男の資質を引き出すことのできた見知らぬ相手に対しての感情なのか、それとも、そんな勝負に身を投じることが出来た男自身に対しての感情なのか、アカギにはわからなかった。

「はぁ?」と怪訝そうな顔をする男に、アカギは静かに首を横に振る。
「聞かせてよ。どんな愉しいことしてきたか」
 アカギが言うと、男はあからさまに嫌そうな顔をする。
「お前……このナリ見てよくそんなこと言えるな」
 呆れたように言う傷だらけの男に、アカギは笑って近づく。
「おかえり。カイジさん」

 電線の上の烏が一羽、黒い翼を大きく広げ、分厚い雲の隙間からわずかに漏れる光に向かって飛び立っていった。






 
 

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