夏に至る しげる視点



 飲み物売場の隅っこに一列、ひっそりと並んでいる水色の瓶が目に入り、ふと足を止めた。
 それは夏の風物詩といっても差し支えないはずなのに、売上が悪いのだろうか、雑多な他の飲み物たちに追い遣られて肩身が狭そうにしている。
 その不自然な様子が逆に目について、立ち止まってしばらく眺めていると、
「ラムネ?」
 隣から声をかけられた。
「珍しいな。今どき、瓶入りのラムネなんて」
 そう言って瞬きするカイジさんは、右手に買い物カゴを提げている。
 中を覗けば、夕飯のメニューが大体予想できた。大量のそうめんに焼きナス。それにゆで豚と冷や奴。どれも、夏になるとカイジさんちの食卓に頻繁に上る品ばかりだ。
「こんなん、屋台でしか見たことねえぞ。この店の品揃えって、つくづく謎だよなぁ」
 カイジさんはなぜかしみじみとそう言って、独特の形をした細長い瓶を眺めている。カイジさん行きつけのこのスーパーマーケットは、いつ潰れるかわからないほど小さくて古いのに、ときどき妙にニッチな商品を置いているらしい。
「……ひょっとしてお前、これ飲みたいのか?」
 カイジさんがラムネを指で示して言ったので、オレは首を横に振る。
 カイジさんはなにか言いたそうな顔をしていたが、「そうか」と呟いてその場を離れていった。
 オレもすぐラムネに興味を失い、カイジさんの買い物が終わるまで、立ち読みでもして待とうと雑誌売場へ足を向けた。



 店の外に出ると、どんよりと曇っているのに気温が高く、じめじめと蒸し暑かった。
 ツバメが、低い空を切り裂くようにして飛んでいる。ひと雨来るかな、とぼんやり考えていると、隣を歩いているカイジさんがなにかを差し出してきた。
「ん」
 押し付けるようにして突き出された水色の瓶と、カイジさんの顔をなんども見比べる。
「なに? これ」
「なにって……ラムネ」
 そんなことはわかっている。
「そうじゃなくて……なんで?」
 こんなもの、いつの間にカゴに入れていたのだろう。
「だって……お前が飲みたそうにしてたから」
 あっけらかんと言うカイジさんに、オレは呆れた。
 それはさっき、否定したはずなんだけど。
 ラムネを受け取らずにただ黙っていると、カイジさんはなにを思ったのか、開け口のラベルを剥がしてプラスチックの玉押しを飲み口にあて、ぐっと力を込めてラムネを開栓した。
 弾けるような炭酸の抜ける音と、ガラス玉が落ちる涼しげな音。
「わっ」
 勢いよく溢れ出た泡に手を濡らされ、カイジさんは短く声を上げる。
 瓶の中でシュワシュワと暴れまわる空気の粒が落ち着くのを待ってから、カイジさんはふたたびオレに向かってラムネを突き出す。
「わり……ちょっと失敗しちまった」
 ……べつに、開け方がわからなくて躊躇してたわけじゃないんだけど。
 しかし、オレが受け取るのを信じて疑わないようなカイジさんの表情を見ていると、なんとなく拒否するのも躊躇われて、オレは渋々ラムネに手を伸ばした。

 水色の瓶はよく冷えていて、溢れた泡でベタベタに濡れていた。
 濡れた手を振って乾かそうとするカイジさんを横目に見ながら、オレはラムネに口をつける。
 ぐっと瓶を傾けると、ガラス玉がカランと鳴り、冷たい液体が口内に流れ込んでくる。
 ちいさい頃に一、二度飲んだことがあるような気がするけど、味の記憶はほとんどなかった。
 炭酸はピリピリと舌を刺すのに、ひたすら甘くて、どこか輪郭のぼけた味がする。
「うまいか?」
 カイジさんに尋ねられ、素直に首を傾げた。
「なんか、いまいち……物足りない感じがする」
 酒気がないからかな、と呟くと、すかさず「アホ」とツッこまれる。
 口に含んだ瞬間は清涼感があるけれど、喉奥にまで纏わり付くように、後味はただただ甘かった。
 思わず顔を顰めるオレを、カイジさんはじっと見て、
「なんか、お前それ似合うな」
 と呟いた。
 似合う? ラムネが?
 ますます眉間に皺が寄る。
「どういう意味?」
「なんつうか……うまく言えねえけど、お前がそれ持ってるとしっくりくる……ような気がする」
 曖昧に濁すような言い方をして、カイジさんは片手に提げた買い物袋を持ち直す。
 妙なことを口走ったという自覚はあるのか、なんだか居心地悪そうな顔で首裏を掻くカイジさんを見て、さっきラムネを飲んだときの感覚がふっと蘇った。
 
 物足りない。
 オレが飲みたがってると思い込んでラムネをこっそり買い物カゴに紛れ込ませたり、オレにラムネが似合うとか、自分で言っておいて据わりの悪そうな顔をしたり。
 ラムネみたいにひたすら甘くて、ぼんやりとうすとぼけている。そんなカイジさんも嫌いじゃないけど、ときどき、とても物足りないのだ。
 オレは知っている。そんな甘ったるいカイジさんの奥底に、はっとするほど鋭い輝きが潜んでいること。まるで瓶の中のガラス玉みたいに、強く得難い煌めきを放つということを、知っているから。
 だから物足りない。なまじその本質を知っているからこそ、普段のやさしさに焦れるときがある。甘いものを飲むと、余計に喉が渇くみたいに。

 だけど、それには滅多に触れることができないのだ。その輝きに触れられるのは、カイジさんが本気の博打をするときだけ。

 見えているのに、その存在を知っているのに。
 取れそうで取れない、瓶の中のガラス玉のよう。
 もどかしいけれど、だからこそ価値を感じるのもまた事実だった。

 いつか触れてみたい。そう遠くない未来に、そんなチャンスがあればいいなと、心の底からオレは思うのだ。



「はい」
 碌に口をつけていない瓶を差し出すと、カイジさんはすこし、目を丸くする。
「もう、いらねえの?」
 頷くと、カイジさんは「ふーん」と言ってやや眉を下げたけど、黙って瓶を受け取った。

 飲み口に唇をつけ、甘いラムネを飲むカイジさんの横顔を見る。
 反らされた喉の中を滑り落ちていく、甘ったるくてどこか気の抜けた味の液体。瓶の中で水色の光を反射してキラキラ光る、宝石みたいなガラス玉。
「カイジさんの方が、ずっと似合ってるよ」
 オレの台詞に、カイジさんは瓶から唇を離し、「へ?」と声を上げてオレを見る。
「届きそうで届かないから、いいんだよね」
 確認するように呟いて、ぽかんとするカイジさんをよそに、オレはすこし笑う。
 カイジさんの手の中から、カランと涼しげな夏の音がした。






 

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