おやすみなさい・3



 記憶を失っていく、ということは、自分という器に穴が空くようなものだ。
 知らず知らずのうち、穴の空いていた器の底から、少しずつ少しずつ記憶や感情が漏れ出ていって、最期に残るのは空っぽの器だけ。
 カイジに対しても、『愛している』という認識だけが残って、どんな気持ちで、どんな風に、どのくらい愛しているか、ということは、すべて失われてしまった。





 情事のあとのけだるい空気をぶち壊すように、カイジは喋り続けている。さっきまでの湿っぽさを無理矢理打ち払うように、とってつけたように明るい声で。
 胡座をかいた固い腿の上に頭を乗せ、よどみなく動き続ける口を見るともなしに見上げていた。この間行った店がうまくなかったとか、競馬で何万すったとか、話の内容は他愛ないことばかり。
 遠い過去や、未来の話は徹底的に避けているようだった。
 最初は頷いたり笑ったりしていたが、やがてそれも億劫になった。それでも、カイジは俺に語りかけるのをやめようとはしない。

 全力で空回りするようなカイジの様子を見ているうち、こいつは眠るのを恐れているのだと気付いた。
 馬鹿だな、と思った。眠ろうと眠るまいと、明日はやってくる。
 必死に喋り続けるカイジの様子は、もはや悲痛ですらあった。ふってわいたような慕わしさが胸にせまり、俺は壊れた玩具のように喋り続けるカイジにそっと言った。

「カイジ、もう眠らせてくれ」

 わざと、含みをもたせた言い方をした。
 見上げる口がひらいたまま凍りつく。言いかけた言葉を詰まらせたように、喉仏が大きく動いた。

「眠りてぇんだ」

 やんわり、押しつけるように言うと、カイジは唇をわななかせた。
 また、泣くかな、と考えていると、ひとつ、大きく深呼吸したあと、予想に反してカイジは笑った。

「おやすみなさい、赤木さん」

 歪んだ、つくりものの笑顔だった。水をいっぱいに貯めた水風船のように、少しつついてやればくしゃくしゃに破けてあっというまに涙があふれてくるだろう。
 美しくない、笑顔だった。だけど、覚えておきたい笑顔だったから、俺はその顔を目に焼き付けてから瞼を閉じた。

「なぁ赤木さん。オレ、あんたのこと好きだったよ」

 ぱた、と音がして、頬の上に熱い滴が幾滴も落ちてくる。
 肌を擽って少し、痒かった。だがそのまま、知らぬふりをする。
 自分のために泣く恋人の膝の上で眠る。永遠の眠りにつく前の、人生最期の眠りがこんな穏やかなものになろうとは、思ってもみなかった。若い頃、自分は賭場で命を散らすと思っていたが、こんな終わりかたも悪くないと思った。
 ぽつぽつと落ちてくる涙の音を、屋外の雨垂れを聞くような心持ちで聞く。心安らかだった。ただひとつ、この男をどんな気持ちで、どのくらい、どんな風に愛したか、やはりそれがどうしても思い出せないことだけがすこし、歯痒かった。

「おやすみ、カイジ」

 泣きながら、カイジが俺の顔を見ている気配がする。もしかして、このまま眠らないつもりだろうか。本当に馬鹿だな。
 馬鹿だな、と思うたび、さっき感じた慕わしさがしんしんと降り積もった。

 次に目覚めたとき、こいつがまだ起きていたら。
 そのときは、「愛している」と言ってやろうか。






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