風呂 アカギが疲れている話


 無機質なチャイムとともに電車のドアが開き、押し出される人の波に紛れてアカギも駅に降り立った。
 一定の方向に規則正しく流れる、川の流れに似た人混みの中を歩くアカギは、片手にボストンバッグをぶら下げるいつもの風体。

 しかし、珍しいことに、その顔には心なしか疲労の色が滲んでいる。

 
 アカギが裏社会で生きるようになってから、短くない年月が流れた。
 今や、その筋の者なら誰もが「赤木しげる」の名を知っている。

 名前が一人歩きし出したって、アカギ自身はなにも変わらなかった。だが、アカギを取り囲む状況は如実に変化した。
 アカギを倒して名を挙げようとする者、逆恨みして命を狙おうとする者も、昔とは段違いに増えた。だがそんなことは、アカギにとっては瑣末事である。
 問題なのは、「赤木しげる」を、ひいてはその非凡な博奕の才を、欲しがる者も掃いて捨てるほど現れるようになったことだ。

 ここ最近も、一度代打ちを引き受けたことのある組が、アカギを専属の代打ちにしようと目論んで執拗につけ狙い、それから逃れるために日本各地を転々としていた。
 そしてようやく今日、東京へ戻ってきたのだ。

 そういう連中をあしらうのが、アカギにとっては最も面倒で煩わしいことだった。
 奴等はまず手始めに、金や女で釣ろうとしてくるが、アカギがそういったものに一切靡かないと知ると、一服盛ったり監禁まがいの真似をしようとしたりと、徐々に手段を選ばなくなってくる。
 手に入れようと躍起になればなるほど、赤木しげるの不興を買うということは、赤木しげるを知っている者なら誰もが周知の事実な筈だ。
 しかし、アカギの意思など関係ないと血眼になってくる手合いも少なくない。

 機嫌を損ねれば、仮に手に入れられたとて、この気紛れな男が望み通りに動くはずがないということだって、冷静に考えればわかるはずなのだ。
 すなわち、アカギを執拗に狙う連中には、その冷静さが大きく欠如しているということであるーーつまりは、追い詰められている。もう後がない。どんな手を使ってでも、目前に控えた博奕に勝たなければ、死、もしくは、それに近い未来の見えている人間。

 そういった人間を遣り過ごすのは、なかなか骨の折れることだった。なにせ、相手はすでに半分、正気ではないのだから。
 かといってそういう連中が、アカギの待ち望む、ひりつくような、あるいは、焦げ付くような『生』を感じさせてくれるかといえば、そうではないというところが、アカギにとって一番の問題なのだった。
 つまり、アカギにとっては至極、どうでもいいこと。いわば、骨折り損のくたびれ儲けに、多くの時間と労力を費やさねばならないところが、アカギにとっては至極面黒いことなのだった。

 いっそ無名だった昔のほうが気楽だったと、思うことも少なくない。
「神域」だとか「転ばず」だとか。そういう別名を冠されたいと望んだわけではないのに、いや、仮にそういう別名がなかったとしても、世間は赤木しげるを放っておいてはくれないのだ。




 珍しく上の空のまま、ぼんやりと歩きつづけて、ふと、アカギが足を止めると、いつのまにかよく知る場所へたどり着いていた。
「……あらら」
 二階建てのオンボロアパートと、裏に広がる空き地。
 どうやら無意識のうちに、足がここへ向かっていたらしい。

 ということは、心のどこかで、あの人に会いたいと思っていたのだろうか。ずっと、顔すら思い出さなかったのに。

 無意識の行動で、自覚さえなかった自らの心の内を知らされる、というのは、ひどく奇妙な感覚で、自分のことのはずなのに、アカギには俄に信じがたかった。


 アカギは目的の部屋の窓を見上げる。
 カーテンから灯りが漏れているから、住人は家にいるようだ。
 夜空にぽっかり浮かんだ月のような、黄色い灯りを目を細めて眺めてから、アカギは空き地を回り込んで入り口へと向かう。



 錆びた階段をのぼり、その部屋の前の前に立つと、換気扇から石鹸の匂いが漏れていた。
 ノックするが、返答はない。
 ドアノブを捻ると、すんなり開いた。

 靴を脱いで部屋に上がり、鞄を置いてまっすぐ風呂場へ向かう。
 案の定、脱衣場には服が脱ぎ散らかされていて、磨りガラスの戸の向こうには、オレンジの灯りが点っている。

 戸をカラリとあけると、果たして想像した通りの光景があって、アカギの口許が緩んだ。

 部屋の主が肩まで湯に浸かり、浴槽の縁に頭を預けて眠っている。
 天井を仰ぎ、口を半開きにした阿呆面で、心地よさそうに。

 アカギは軽く息を吸い、わざと声を張った。
「カイジさん」
 びくっ、と体を跳ねさせたカイジにあわせ、風呂の湯もバシャンと派手な音をたてて跳ねた。
 その様子に、アカギの口から笑いが漏れる。

 豆鉄砲を食った鳩のように、せわしなく辺りを見回したカイジは、アカギの姿を認めると目を丸くし、それからザバリと勢いよく立ち上がった。
 全身から湯を滴らせながら、目覚めて間もない呂律の怪しい声で怒鳴る。
「こっ、の……不法侵入者!」
「鍵開いてたよ。不用心だなカイジさん」
 カイジは石鹸を手掴みすると、アカギに向かって投げつけた。
 しかし寝起きで感覚が覚束ないせいか、この近距離でも狙いは外れ、石鹸は磨りガラスの戸に当たってつるつると床を滑る。

 ノーコン、とからかってやろうと口を開きかけ、アカギはなんとなく口をつぐんだ。
「アカギ?」
 いきなり黙りこんだアカギに、カイジは不審そうに眉を寄せる。

 その間抜け面を見ていると、さっきまで疑わしく思っていた自分の心の内が、はっきりと自覚できた。
 まるで、ぼやけていたレンズのピントが、ぴたりと合ったように。

 どうやら自分は、とてもこの人に会いたかったらしい。

 心を揺さぶる衝動の赴くまま、靴下が濡れるのもいとわずに浴室へ上がる。
「ばっ……おま、服……っ!」
 驚いた顔をするカイジの腕を引き、濡れた体を抱き寄せる。
 瞬く間に服が湿っていくが、アカギは構わず、その体をきつくきつく抱き締めた。
 しらずしらずのうちに冷えきっていた体が、じんわりあたたまっていく。

「……おい、アカギ?」
「……」

 アカギは答えず、カイジの首筋に顔を埋めて深く息を吸った。
 石鹸と湯の香りがする。


 カイジはしばらく落ち着かなさげにしていたが、やがてなにか言うのを諦めたようで、浴槽に突っ立ったまま、おとなしくアカギに抱き締められていた。
 かといって、アカギの背中に腕を回すようなこともせず、両腕は手持ち無沙汰そうに垂らしている。

 アカギはカイジのこういうところを好ましく思っていた。なにも聞かないところ。妙な労りを見せないところ。

 さらに抱き締める力を強めると、カイジがやや苦しそうに、けほ、と咳き込んだ。



 しばらく無言でそうしたあと、アカギはカイジを抱き締めたまま、ぽつりと呟いた。
「カイジさん」
「……んだよ」
「カイジさんは、オレが欲しい?」
 あぁ? とガラの悪い声で言って、カイジは眉を寄せる。
「……どういう意味だよ」
「どうって。そのまんまの意味」
 全く説明になっていないアカギの返答に、カイジはますます顔をしかめたが、やがて、小馬鹿にしたようにせせら笑って言った。

「いらねぇよ、お前みたいな性悪なんか」

 アカギは目を閉じ、声に出さずに笑う。その顔はひどく満足そうだった。
 顔は見えないが、気配でアカギが笑っていることを感じとったカイジは、ますます眉を寄せる。
「なんか今日、お前変じゃねぇ?」
「そうかな」
「らしくねぇって。なんか、キモチ悪ぃ」
「……そうかもね」
「だから、そういうとこ。お前いつもそんなしおらしくねえだろ」
「……」

 黙ったアカギをよそに「疲れてんだろ」と勝手に結論付け、カイジはくぁ、と欠伸をした。

「ま、お前にもいろいろあんだろなぁ。オレなんかには想像もつかねえようなことがさ」

 しみじみとしたような声に、アカギはカイジに悟られぬよう軽く目を伏せる。

 腹の底がむず痒いような、据わりの悪い感覚があった。
 カイジといると時々、こんな感覚に襲われることがある。

 そのなまぬるい感情は、アカギとは縁遠いものだったが、今はそれを必要としている自分がいる。
 本当にごくまれに、一年に一度、あるかないかくらいだが、ふとそういう気持ちを欲してしまうことがある。

 だから今日、会いに来たのかもしれないなとアカギは思った。
 それを認めるのは癪だったが、アカギはカイジとのやりとりのなかで、自分がいつもの調子を取り戻しつつあるのを感じていた。

「あんたくらいだよ、オレのこと、要らないなんて言い切るのは」
「? なんだって?」

 聞こえぬように呟いた言葉を聞き返すカイジに、アカギは腕の力を緩め、その顔を真正面から見る。

「決めた。あと三十分であんたに、『お前が欲しい』って言わせてやる」

 そう言ってカイジの唇を掠めるように奪い、アカギはニヤリと口端をつり上げる。
 その顔からはさっきの『らしくない』ようすは消え去り、既にいつもどおりの、赤木しげるの笑みに戻っていた。

 カイジは暫し、ぽかんとして数度目を瞬かせたあと、

「よくわかんねえけど、元気になったみてえで何よりだよ」

 と、呆れ顔で言うのだった。






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