teach me・3


 あのとき。
 と言われて、カイジが思い当たることはたったひとつだった。

 去年の四月。アカギと初めて出会ったときのこと。アカギがまだ後輩で、新入生だった頃のこと。
 授業をフケて昼寝していた校舎の裏で、カイジは偶然、見てしまったのだ。アカギが、上級生(カイジにとっては元同級生だが)の集団に囲まれているところを。

 遠くからでも、穏やかではない空気が伝わってきた。アカギ一人に対して相手は六人。絶対的に不利である。
 見て見ぬフリを決め込むこともできたが、あまりにもアカギの分が悪く見え、加えて、アカギが明らかに新入生らしかったから、助けにいくことを決めた。入学早々目をつけられ、酷い目に逢わされそうになっている新入生に、多少なりと同情の念が湧いたのだ。

 もちろん、集団相手にアカギと二人、素手で渡り合おうなんて考えていない。ただ、うまく逃げ出すことだけ考えていた。逃げ足の速さには自信があったし、サボりで校舎をうろつくことがしょっちゅうあったから、いくつか便利な抜け道も知っていた。

「先公が来た」とかなんとか叫びながら駆け寄り、連中がざわついた一瞬の隙をついてアカギの腕を掴み、走った。

 すぐさま、背後から追ってくる罵声に肝を冷やしながら、アカギの手を引いて、必死に逃げた。体育館への渡り廊下を土足で通り抜け、焼却炉の隣、校舎との間にしゃがみこめばちょうど二人分くらいの、隠れられる隙間がある。そこにまずアカギを押し込め、自分も隠れた。

 息を潜めて、足音と怒鳴り声が遠ざかるのを待った。ようやく辺りが静かになったころ、カイジは深くため息をついた。「大丈夫か」といいながら、アカギを見ると、汗みずくで大息をついているカイジとは対照的に、息ひとつ乱さず、どこか不思議そうな顔でカイジを見ていた。
 若干、拍子抜けしたカイジだったが、「この学校、柄の悪い連中が多いから、気を付けろよ」と、上級生風を吹かせて言った。
「……ありがとうございます」
 初めて聞く声のトーンは、思ったより高かった。無愛想な見た目を裏切り、素直に礼を言う新入生に気を良くして、カイジはズボンの砂を払い、その場を立ち去ったのだ。

 お互い名乗りもしなかった。

 そんなことがあった。

 アカギがあの時のことに言及するのは、これが初めてだった。だからカイジは驚いた。アカギはもう、忘れているのだとばかり思っていたからだ。
「なんで助けたかって、だって、お前、なんかヤバそうだったし。人数的に」
 あの頃は、アカギが入学したばかりで、嘘みたいに喧嘩が強いという噂もまだ流れていなかった。知っていたら、助けに入らなかったかもしれない。
「報復されるかもしれないとか、考えなかったの」
「いや……あん時は。必死だったし」
「ふうん」
 間抜けな話、あとになって報復の可能性に思い至り、カイジは青ざめたのだ。
 ビクビクしながら生活していた時期もあったが、恐れていた事態は起こらなかった。そう広くもない校舎の中、あの時の連中と廊下ですれ違うこともあった。だがそういうとき、相手は皆、なぜか焦ったような様子ですぐさまカイジから目線をそらすのだった。

 そういうわけで、カイジの学校生活は(学問のことを除けば)平穏無事に過ぎ、件の連中は卒業し、カイジは留年してアカギと同じクラスになった。

 そういえばあれは一体、なんだったのだろう。カイジは今更ながら考える。あの時は、不審に思いつつも深く考えたりしなかったが、改めて思い出してみると妙だ。
 カイジから目をそらす相手の様子は、明らかに怯えているようだった。まるで連中の方が、報復を恐れているように見えた。
 報復?
 カイジははっとして、アカギの顔を見る。
 アカギは初めて会ったときのような、不思議なものを見るような顔でカイジを見ている。
 アカギにしては牧歌的とも言えるその様子に、カイジは自分の考えを打ち消す。
(まさか……な……)
 でも、考えられる可能性はそれしかない。
 少し躊躇いつつ、カイジは本人に確かめようと口を開いた。だがカイジが声を発するより早く、アカギが言った。

「もうひとつ、わからないことがあるんだけど。教えてくれる?」

 突然、そんなことを言われ、意表を突かれたカイジは思わず頷いてしまう。

「お、おう。オレで教えられる問題なら――」
「大丈夫。カイジさんにしか、教えられないことだから」

 アカギはそう言うと、軽く身を乗り出した。
 そして、とてもなめらかな動作で、カイジの唇に自分の唇を押し当てた。

 そっと、食むように唇を動かし、すぐに離れる。拒否や嫌悪を示す隙がないほど、短く、あっさりした口付けだった。
 呆気にとられているカイジを差し置いて、アカギはひとり納得したように呟いた。

「そうか」

 アカギはカイジの目をまっすぐに見て、言う。

「わからなかったんだ。何故、オレはあんたのことを構うのか。近くに居たいと思うのか」

 まるで他人のことのような口ぶりで、アカギが並べ立てた疑問は、ずっとカイジがアカギに対して感じていたことだ。
 だけど、カイジはその先の答えを、聞かない方がいい気がしていた。
 聞いてしまったが最後、戻れない。なんとなく、そんな気がした。
 耳を塞ぐべきだと思った。だけど、石になってしまったかのように、体が動かない。心拍数が徐々に、上がっていくのを感じる。
 それなのに、

「わかった、のか?」

 気がつくと、カイジはそう問いかけていた。喉にひっかかるような、ぎこちない声だった。
 だが、アカギはカイジの問いには答えず、はぐらかすようなことを口にした。

「知りたいな……カイジさんのこと、もっと。なにもかも、全部」

 教えてくれるよね?

 問いかけの形を取ってはいるが、その声には有無を言わさぬ響きがあった。そしてその声音から、アカギの要求が健全なものではないことがありありと伝わってきた。
 机一個挟んだ距離でカイジを見詰める、黒い瞳は明らかに笑っている。ついぞ見たことがないくらい、楽しそうに。

 なんだ。
 こいつ、結構よく笑うんだな。

 焦燥と混乱でぐらぐらと煮立つような頭の片隅で、まるで現実逃避のように、カイジはそんなことを思っていた。





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