holy・1


「伊藤、ちょっと」

 レジに並ぶ客がちょうど途切れた頃、カイジは店長に呼びつけられ、バックヤードに引っ込んだ。
 明度の低い部屋で向かい合った店長は、珍しく眉間の皺が伸びていて、表情が柔らかい。
 ただしそれは、明らかに取ってつけたような柔らかさで、正直、嫌な予感がした。
「次、西尾が休憩入るから、お前、一時間残ってケーキ売ってくれんか? もちろん、残業代はつけるから」
 予感的中。カイジはげんなりする。その様子を見咎めた店長の表情からたちまち柔和さが抜け落ち、カイジは慌ててため息を途中で飲み込んだ。
「お前以外、この後入れる奴いないんだよ。なぁ、頼む」
 気を取り直したように、店長は笑顔を繕う。
 このコンビニで働き始めてからカイジには一度たりとも向けられたことのない、ニコニコ顔。
  あの店長が猫撫で声で懇願している。ほっとくとそのうち揉み手でも始めそうな勢いだ。
 しかしながら、その目の奥はぜんぜん笑ってない。

 まさか断ったりしねえだろうな、このクズーー。

 そんな台詞が聞こえてきそうな、鬼気迫る様子がひしひしと伝わってきて、カイジは結局その気迫に負け、嫌々ながらも首を縦に振ってしまった。

 その瞬間、まるで魔法が解けたかのように張り詰めた空気が緩み、店長は初めて屈託の一切ない、本物の笑顔をみせた。
「悪いな。頑張って売ってくれ」
 ぽん、と軽く肩を叩かれる。
 さっき飲み込んだため息がカイジの口から漏れ出たが、店長はもうそんなもの気にしていないようだ。言質は取った、あとはこいつの気持ちなど知ったこっちゃないーーそんな心境なのだろう。



 世間はクリスマスイブ。今夜シフトに入れたのは、カイジと西尾だけだった。バイトは学生がほとんどのこのコンビニでは、当然といえば当然のことである。
 佐原も、新しくできた彼女と過ごすとかなんとか、聞かれもしないのに吹聴してまわっていた。

 クリスマスイブといっても、バイト以外の予定が一切ないカイジには、一時間の超勤などさして問題ではない。
 問題なのは、仕事の内容だ。

 店に戻ると、ちょうど西尾が店内に入ってくるところだった。
 赤いサンタクロースのコスチュームに身を包んでいる。裾に白い縁取りのあるミニスカートからのぞく、黒いタイツの足が見るからに寒々しい。
 鼻の頭を赤くし、冷えきった手を擦り合わせている西尾に、店長がすかさず声をかけた。
「西尾、次、伊藤が代わるから」
 ーー寒かっただろう。悪いな、せっかくのクリスマスイブなのに。
 またしても猫撫で声。しかし、その声の甘さはさっきの三割増しだし、表情も本気で気遣わしげだ。
 さきほどのカイジに対する態度とは、月とスッポンである。
「いえ、今日は一日空いてましたし、それに結構、楽しんでますから」
 月はその言葉で店長の目尻をさらに下げさせ、サンタの帽子を取ってスッポンにまで頭を下げる。
「伊藤さん、よろしくお願いします」
 スタッフルームに引っ込む西尾の後ろ姿を見送りながら、いい子だな、とカイジは思った。
 しかしドアが閉まった瞬間、同じように西尾の背中を見送っていた店長が、「早く行けよ」と言いたげな目線を投げてきたので、カイジはそそくさとバックヤードに引っ込んだ。



 衣装の入っている段ボール箱から、男性用のサンタ服を取り出す。目に鮮やかなそれに、またしてもため息が漏れた。

 レジでの接客や他の雑用ならまだいい。しかしこれは、この仕事は、明らかにオレ向きじゃないだろう?
 こういうのが死ぬほど苦手だって、奴だってわかってるはずなのに。自分がやれよ、自分が。
 きっと寒いからやりたくねえんだろう。こういうときだけ下手に出て、嫌な仕事人に押し付けやがって。

 心中でボロクソにけなしながら、カイジはサンタ服を着々と身につけていく。
 だぶついた腰のあたりを太いベルトで締め、スニーカーから茶色いブーツに履き替える。
 綿で出来た白い髭は、つけると肌がちくちくしそうだが、これをつけずに表へ出る勇気はない。
 鏡を見ながら髭をつけ、バックヤードから出る。

 店長はカイジの姿をちらりと見ただけで、すぐに手元の伝票に目を落とす。
 氷点下の態度に最早なにを言う気も起こらず、カイジは重い足取りで自動ドアをくぐった。



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