やさしい人


 血に染まったしげるの右腕に、カイジはぐるぐると包帯を巻きつけていく。
  正しい巻き方など知らないカイジの巻き方は雑で、巻いたそばからほどけたり、縺れて絡まったりして、止血の役割をまったく果たしていないといってよかった。
 しかし、しげるはただ黙ったまま、ぐるぐる巻きにされていく自分の右腕を見ている。

 たわんで垂れた包帯から、血が一滴、ぽつりと床に滴り、そのあとを追うように透明な雫が一滴、二滴、ぱたぱたと降り、最初に落ちたしげるの血を滲ませた。
 頬を伝う雫を乱暴に拭いながら、カイジは包帯を巻き続ける。


 しげるの体には、喧嘩による生傷が絶えない。今日の傷はビール瓶でやられたものだった。カラメル色のガラスに突き破られた皮膚が、捲れて垂れ下がったりしている。
 これで何度目だろう、怪我をしてカイジのもとへ転がり込むのは。ぐるぐる巻きにされていく右腕を見ながら、しげるは考える。
 時刻は深夜零時をとっくに回っている。
 しげるがカイジを訪ねるのは大抵夜半過ぎである。だが、どんな時間に訪ねても、カイジは必ずしげるを迎え入れる。

 病院が開いていない深夜、喧嘩で深手を負ったときに、とりあえず転がり込む場所。
 しげるにとってカイジの価値とは、それくらいのものだった。
 行く度に泣かれ、いらないといくら言っても下手くそな応急処置をされるのには閉口したが、それにさえ目を瞑ればこれほど便利なことはなかった。

 カイジは、やさしかった。慣れぬ手つきで懸命に手当てをし、無茶をするなとしげるの体を労る。怪我人に対するそのやさしさはどうやら、過去の経験に起因するものがあるようだったが、しげるはそんなもの興味がなかったから、知ろうともしなかった。
 はじめは、物好きだな、と思うに止まっていた。自堕落な生活を送り、下手な博奕で敗け続ける姿を見るにつけ、他人の心配より自分の心配すればいいのに、なんて冷淡に蔑んでさえいた。

 だけどカイジのもとを繰り返し訪れるうち、しげるは自分の中のなにかが少しずつ狂い始めていることに気づいた。

 いつからだろう。泣きながら怪我の手当てをするカイジを見ていると、胸の底が小さな波紋を描くようになったのは。

 それを自覚したとき、しげるは猛烈な吐き気を覚えた。それは、生涯持つことはないだろうと思っていた類いの感情だったから。
 一旦自覚してしまえば、波紋はどんどん大きくなるばかりで、やがて自分の生き方の根底の部分まで、ぐらぐら揺らいでいくような気がした。
 普段はそんな不安定さなど微塵も感じないのに、どうしてカイジといるときだけこんな風になってしまうのか、しげるにはぜんぜんわからなかった。

  もうカイジには会わない方がいい、強くそう思った。
 それなのに、怪我をするとカイジの部屋のドアをノックしてしまう自分がいる。

 度しがたいその事実に激しく苛立ち、動揺している自分に気づいたとき、しげるはようやく、あることを悟った。

 やさしさとは、暴力である。

 少なくとも、カイジのやさしさは、しげるにとって暴力以外の何物でもなかった。
 それも、真綿でじわじわと首を絞めるような、たちの悪いもの。背後から音もなく忍び寄ってきて、あっ、と気づくころにはもう、自分の中のなにかが完膚なきまでに壊され、作り替えられている。そんな暴力だった。
 今までしげるが受けた、あるいはふるってきた暴力とはまるで違う。真正面からの殴り合いになら腕に覚えのあるしげるが、カイジのやさしさの前ではなんの力をふるうこともできずただ黙ってやり過ごすしかなかった。

 カイジはそのやさしさで、がんじがらめにする、しげるのことを。カイジにその自覚はなくても、しげるは身動きがとりづらくなっていた。
 カイジに会うと胸がさざめいて、自分が今までの自分からどんどん解離していく気がして、でも会わずにはいられなくて。
 まるで腕に巻かれる包帯のようにぐるぐると、思考の堂々巡りを繰り返すしかなかった。

 この状況から抜け出したい。

 嵐のようなしげるの心中を知らぬまま、包帯を巻き続けるカイジをじっと睨む。

 なんとか、この暴力的なやさしさに抵抗しなくてはいけない。たとえそうすることによって、自分が、今までの自分でなくなってしまうとしても。
 
 包帯の端がするりとカイジの手元から離れ、継ぎのあるその手の中には茶色の芯だけが残った。
 しげるは静かに息を吸い、なにかを諦めるようなため息をひとつ。

 目には目を、歯には歯を。

「カイジさん」

 暴力には、暴力を。

 しげるは怪我をしていない左手で、カイジの肩を乱暴に掴み、横っ面をひっぱたく
 ーーような荒々しさで、くちづけをした。

 ガツンと歯と歯がぶつかって、脳天に響く。
 くぐもった呻き声。
 驚きに見開かれた目を眼前に眺めつつ、 自分をすっかり変えてしまったことへの憎しみと、雪崩のように押し寄せる愛しさを込め、噛みつくような獰猛さでキスをする。


 これが終わったとき『どうして?』なんて野暮なこと聞きやがったら、そのときは本当にぶん殴ってやる、などと思いながら。





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