ネズミ・1 痒い話


 突然だが、カイジの泣き顔はそそる。
 ーーと、しげるは常々思っている。
 
 カイジが泣く前兆として、まず目許が、じんわり赤みを帯びてくる。
 そして、太い眉が、まるで怒っているみたいにぐっと寄る。その頃には、つり上がった大きな両目が、水分でぴかぴか光ってくる。

 女ならその後、すぐさまぽろり、というところかもしれないが、男の端くれであるカイジは、そこで耐える。
 唇をへの字に結んで、潤んだ目を乾かしでもするように見開いて、爪が食い込むほど拳を握ってみたりして。
 そうして、涙が流れ落ちるのを頑張って持ちこたえようとするのだが、その努力はまず無駄に終わる。というか、しげるが終わらせる。

 ちょっと意地悪な言葉をかけたり、体にさわったり。
 カイジが必死で守っている最後の堤防を突き崩すようなちょっかいを、出さずにはいられないのだ。

 すると、零れる。
 ひとつぶ零れると、あとは決壊。濁流みたいに溢れてくる。
 目許に加え、頬と白目と鼻の頭も赤くなってくる。泣き声は上げないが、ぐすぐすと鼻をすする音がずっとしている。
 強く強く噛み締めた唇が、塩辛い水で濡れていく。

 情けない顔をみられたくないのか、カイジは泣くと深くうつむいてしまう。
 でもしげるはその顔が見たいから、さっきよりももっと意地悪なことを言って気を引くか、無理矢理顔を上げさせてしまう。
 すると、カイジは余計に顔を歪め、泣く。泣きながら、しげるを責める。
 そのようすがどうしようもなくそそるものだから、しげるは更にひどい悪戯をカイジにしてしまう。
 カイジはもっともっと泣く。それがまたしげるをムラムラさせてーーという風に、キリがないのだ。

 結果、カイジが泣き始めると、しげるはお天道様のもとではとてもとても口にできないようなことを、カイジにたくさんしてしまうのだ。
 どちらかといえば、性的なことには淡白なはずの自分をこんな風にしてしまうなんて、カイジの涙には、催淫効果があるのかもしれないなんて、そんな馬鹿げたことを考えたりもする。

 そして、そういうことがあった後は、カイジはしばらく口をきいてくれない。
 しげるはごめんと謝るけれど、罪悪感はさほどない。
 そうなってしまう原因の半分は、カイジにあると思っているから。
 あんな顔をするカイジさんだって悪い。言ったら絶対に怒るだろうから、言わないけど。

 許してもらえるのに必要な時間は、してしまったことの程度による。
 短ければ一時間、長くても三日。
 どんなにひどいことをしてしまっても、カイジは三日たてばけろりとして、いつも通りしげるに接してくる。その甘さも、しげるが懲りずに何度もカイジをいじめてしまう原因のひとつなのである。




 さて、そのカイジだが、結構な頻度で泣く。
 昔あったことへの悔恨に涙し、ギャンブルに負けた悔しさに涙し、惨めな自分に苛立って涙する。一度、金がないと言ってすすり泣きを始めた時には、流石のしげるも唖然としてしまった。
 平均的な成人男性の涙を流す量がどれほどのものかは知らないが、カイジのそれは明らかに多い方だろう。
 涙腺が緩いのか、外出していても、泣いてしまうことがある。さすがに号泣とまではいかないが、外で頬を濡らすくらいのことは、わりと頻繁にある。

 しげるはそんなカイジにすこし、やきもきする。
 この人はきっと、自分以外の人間にだって、無防備に泣き顔を見せているのだろう、と。
 カイジはべつに見せたくて見せている訳ではないのだろうが、自分の知らないところで、自分の知らない人間に、あの泣き顔を見せているのだと思うと、しげるは内心穏やかではない。

 ーーカイジさんは、自分の泣き顔が、どれだけクるのか、ひとつもわかってない。

 無論、そんなのはしげるの単なる思い込みである。
 特殊な性癖のあるお方々には、あるいはカイジの泣き顔はたまらないのかもしれないが、世間一般的には、魅惑的という言葉の対極に位置するような、単なる無職青年の泣き顔なのである。
 しかし、そこはそれ。恋をする者にとっては、あばたもえくぼ、なのであって、しげるが恋というものに不慣れなこともあって、誰彼構わず泣き顔を曝すカイジの危機感のなさというのは、これはもう、しげるにとって、由々しき問題なのである。

 
 そんなわけで、隣に並んで歩いていたはずのカイジが、いつのまにか自分の遥か後ろで立ち止まり、目頭を押さえているのに気付いたしげるは、深く深く眉を寄せたのだった。

 あの人はいったいなにをしてるんだ。周りに人がたくさんいるのに。

 しげるは苛立ったように踵を返した。



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