爪 甘々



「……お前、爪、伸びてるだろ」
 ぐったりと隣にうつ伏しているカイジにそう言われ、アカギは自分の右手指を見た。
「……あらら、本当だ」
 蛍光灯の明かりに、少しだけ伸びた白い爪先を透かし、たった今気付いた、という風に呟く。
 なぜカイジがそんなことを言い出したのか、考えるまでもなくアカギはすぐに思い至って、
「ああ……ごめん。中、痛かった?」
 と問う。
 カイジはアカギの方を半眼で見ると、だるそうに一度、頷いた。
 行為の余韻か、その頬はまだ微かに赤みを帯びていて、長い髪が、汗で毛先の方までしっとり湿っている。
「でもいいよね、カイジさん、痛いの好きだし」
 とアカギが言えば、カイジはすぐさま目をつり上げて
「……死ね」
 と吐き捨てる。

 その反応に、ずいぶん慣れたものだな、とアカギは思う。
 こんな直接的な会話をすれば、少し前のカイジなら、顔を真っ赤にしてムキになって反抗していたことだろう。
 しかし、こんな風にさらりと流せるくらいには、自分との行為に慣れて羞恥心も薄れてきたということか。
 まあ、両手で足りないほどたくさんの夜を重ねてきたわけだから、当然と言えば当然だ。

 そこまで考えて、アカギはほんの少しだけ、惜しいような気持ちになる。
 いつまでたっても初心な反応を返すカイジをからかうのも、面白かったのだが。

「……れよ」
「ん?」
 考えに浸っていたアカギは、カイジがなにか言ったのを聞きそびれ、問い返す。
「切れよ。爪切りそこにあるから」
 カイジは顎で机の上を示した。

 アカギは自分の指先と、カイジの顔を交互に見る。
 正直、面倒臭かった。
 やったばかりで体はだるいし、今夜は吐く息が白むほど冷え込んでいるので、布団から出たくない。

「カイジさんが切ってくれよ」
 茶化すように言うと、
「ふざけんな」
 即答される。
 それに短く笑い、アカギは
「……まぁ、そのうち切るよ」
 と答えて欠伸をした。
 そのまま、襲い来る眠気の波に巻かれるように、うとうとと微睡み始める。
 すると、当て付けのように大きな舌打ちとともにカイジがベッドから降り、爪切りとティッシュの箱を手に戻ってきた。

「手」
 短く促され、アカギは眠い目を擦り、意外そうな顔で笑った。
「本当にやってくれるの」
 ティッシュを一枚抜き取りながら、カイジは不機嫌そうに答える。
「だってお前、『そのうち』とかって、ぜってぇ切らねーじゃん……」
「カイジさん、母親みてぇだな……」
「……無駄口叩くならやらねぇぞ」
 アカギは口を閉ざし、体を起こすと、おとなしく右手をカイジに差し出した。
 明らかに口角の上がっているその顔を睨んでから、カイジは乱暴にアカギの手をとって親指に爪切りをあてた。

 乾いた音を聞きながら、アカギは無言で爪を切るカイジの様子を伺う。
 動作が乱暴だったのは爪切りを宛がうところまでで、いざ、爪を切り始めるとカイジはやたら慎重だった。
 他人の爪を切るのなんて、生まれて初めてなのだろう。要領をつかめないのか、馬鹿丁寧なほどゆっくり、爪切りを動かしていく。

 カイジは集中しているようで、真剣な表情がやたら可笑しかった。しかし笑うと臍を曲げられそうなので、アカギはなんとか笑いを噛み殺す。

 ぱちん、ぱちん、と不規則に響く音が、緩やかな眠気を誘う。
 赤子の手に触れるような柔らかさで触れてくるカイジの手がまたいい塩梅にあたたかくて、気を抜くと座ったまま眠ってしまいそうだ。

 右手の小指の爪を切り終え、カイジが左手を出すよう促す。言われるまま左手を差し出しながら、アカギは半分閉じかかった目で、やたら熱心なカイジの顔をぼんやり眺めていた。






 アカギがうつらうつらしている間に、カイジは両手の爪を切り終え、軽く息を吐いた。
「……終わったぞ」
 爪くらいちゃんと切れよ、子どもじゃねえんだから。
 ティッシュペーパーを丸めながら言うカイジに、アカギはふと思い出して言う。
「あんただって人のこと言えないでしょ」
「は?」
 言われた意味がわからない、という顔をするカイジに、アカギは付け加える。

「オレの背中、あんたのせいで傷だらけなんだけど」

 ピリピリと痛みの走る背中の掻き傷は、さっきの行為の最中につけられたものだった。
 別にこれくらいの傷、アカギにとってはどうってことないのだが、いつもの軽口のつもりで、なにげなく口にしたのだった。

 しかし。
 アカギの予想に反し、反駁の言葉はなく。
 代わりに、石のように黙りこんでしまったカイジの頬が、みるみるうちに赤く染まっていった。

 予想外の反応に、アカギは珍しく驚いた顔をしたが、カイジは気づかなかったようだ。
 真っ赤に染まった顔を隠すように、自らの両手の爪に視線を落としていたからだ。


 叱られた子どものように深くうつむいてしまったカイジのつむじを見ながら、アカギは心中で笑う。

 さっきは、ずいぶん慣れたものだ、と思ったが、どうやらまだまだだったらしい。
 こんなふうに不意を突かれると、もう駄目なのだろう。
 カイジの頭の中には、今しがた無我夢中でアカギの背中にしがみついていた自分の姿が、鮮やかに蘇っているに違いない。

 からかいの種が完全に潰えていなかったことに気分を良くし、アカギは軽い調子で問いかける。
「切ってやろうか?」
 いらねえっ、と鋭く叫んで、カイジはアカギの手から爪切りをひったくった。

 自分に背中を向け、怒ったように乱雑な動作で爪を切るカイジが可笑しくて、アカギはまた笑いを耐えなければならなかった。




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