甘やかす



 カタカタ言いながら首を振る扇風機が、自分の方に顔を向けたその時を狙い、足を伸ばす。
 両足で扇風機の頭を挟んで固定すると、ガ、ガ、と無体に抗議するような不快な声を上げ、それに気付いたカイジさんが眉を寄せて一言、「やめろ」と言った。
 無視して続けていると、カイジさんは疲れた顔をして黙ってしまった。


 カイジさんの部屋には冷房がない。唯一、涼を得る道具である扇風機をフル稼働させても、三十五度越えの酷暑の中では焼け石に水だ。
 だから少しでも体の熱を逃がすため、この部屋では大抵こうして、二人でだらりと床に寝そべっている。
 板張りの床は最初こそ冷たいが、すぐに体温が移って温くなる。そうなったら寝返りをうち、別の場所に体をつける。延々、その繰り返し。

 脳味噌までとろけそうな自堕落さ。カイジさんはオレのいない日でも、日がな一日、こんなことを飽きもせず続けているのだろう。つくづく、ダメな大人の典型だと思う。それに兎や角言うつもりもないけど。

 朝からつけっぱなしのテレビの中では高校球児が汗を流している。
 四回裏、金属バットが胸のすくような音をたて、画面の中がにわかに騒がしくなったころ、カイジさんがむくりと体を起こし、立ち上がった。

「どこにいくの」
「涼しいところ」
「オレもいく」
「ガキは入れねぇよ」
「なんだ、パチンコ屋か」

 寝返りをうって起き上がると、フローリングの床が汗で濡れていた。
「オレもいくってば」
 カイジさんのあとについて玄関までいくと、ものすごく嫌そうな顔をされた。

 見慣れた顔だ。気にせずスニーカーに履き替える。

 ひとが嫌い、ひとりが好き。
 だから本当は、こんな風につきまとわれるのはうっとうしいのだろう。だけどそれを口に出すことはしない。面倒臭がりなうえ、いまいち残酷になりきれないのだ、この人は。
 そこにつけこんでいる。悪いとは思わない。

 カン、カン、と乾いた靴音を重ねながら、階段を下りる。前を行くカイジさんの、つむじを見ながら考える。

 オレもいく、っていうのは、もちろん冗談だった。さすがにパチンコ屋についていくわけにもいかないだろう。そんなことをしたら、カイジさんは即刻出入り禁止だ。
 だから、嫌がらせはここでやめにして、クーラーのガンガンに効いている雀荘にでもいくつもりだった。



 駐輪スペースに下り、ボロい自転車のスタンドを蹴るカイジさんをぼーっと眺めていると、オレを振り返って不審そうな顔で訊いてきた。

「……乗らねぇの?」

 当然のような顔で、指差されたのは自転車の後ろ。
 予想外の言葉に、うまい返しを思い付かなくて、出てきたことばは馬鹿みたいな疑問符だった。

「……いいの?」
「いいのもなにもお前、オレも行くって言ってたじゃねぇか」

 さすがにパチ屋には行けねぇから……、涼しい場所……、喫茶店かどっかかな。

 カイジさんは、ひとりでぶつぶつなにか言っている。
 オレはというと、なんだか裏切られたような気分がしていた。

 本当は、パチンコ屋に行きたいくせに。
 はやく、ひとりになりたいくせに。

 カイジさんは時々、こんな風にオレを甘やかす。

 静かに悔しく、歯噛みしたいような気持ちになった。
 甘やかされたいと望んだわけではない。本当に、ここで別れるつもりだった。別れてやるつもりだった、カイジさんが嫌がるから。
 それなのに、息をするような自然さで甘やかされると、思い知らされるのだ。

 こんな駄目人間でも、カイジさんはオトナで。
 この人にとって、オレはまだまだガキなのだと。甘やかしの対象なのだと。

 腹が立つ。むしゃくしゃする。だが雀荘へ行くという選択肢は、カイジさんに誘われた時点でオレのなかから完全に消えてしまっている。
 甘やかしでもなんでも、本当はこの人と居たいから。

 こんなときばかりオトナの顔をして、なに食わぬ顔でオレを突き放す。
 八年。永遠に埋まらないその年数。忘れていたいそれを、こんな風に思い出させるなんて。

「ずるいよね」

 呟いた声は、降るような蝉の声に掻き消された。
 間延びした声で「なにか言ったかー?」と訊いてくるカイジさんに、

「早く出して、っつったの」

 と返して、その肩に手を置いた。




※自転車のふたりのりは違法です。





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