おやすみなさい・1 赤木視点 夢見がち ポエミー



 目の前の男が滂沱のごとく涙を流す。その様子に一瞬、既視感を覚える。この顔、前にどこかで見たな。どこだったか、いつだったか、記憶を手繰ろうにも糸は手元からそっくり失われている。

「どうしてっ、そんなことっ! あんたオレに……一言だって……」

 古い櫛の歯のようにあちこち欠けた記憶の中でも、涙を流して自分を責める男の名前は辛うじて残っている。伊藤開司。
 明日、自ら命を断つ。それを告げてから既に、二時間ほど経っている。目の前の男はまず取り乱し、何度も正気かと問い質し、馬鹿なことを考えるなと説得し、俺の気持ちが変わらないと悟ると暫し呆然としたのち「あんた、オレをおいていくのかよ」と呟いて泣き始めた。概ね、予想した通りの反応だった。あまりに予想通りなので、吹き出しそうになるのを我慢するのに苦労した。
 さめざめ泣くようすを黙って見守っていると、カイジはやがて、泣きながら怒りだした。
 自分になんの相談もなかったことを非難しているのだ。この脳を蝕む病気のことさえ、つい今しがた打ち明けたばかりだった。
 しばらく顔を見せないと思ったら急にひょっこり訪ねてきて、明日死ぬ、と言われたら誰だって怒るだろう。
 ましてや、仮にも恋仲なのだ。とは言っても、今までも、気まぐれにこいつの前に顔を出すだけだった。記憶が怪しくなってからは、更に足は遠のいたので、こいつの顔を見るのはほんとうに、久しぶりだった。

 男は歯を食い縛り、実に悔しげに、辛そうに泣いている。惚れ惚れするほど見事な泣きっぷりに感心していると、赤い目をぐいと一擦りして口を開いた。

「そんなこと、勝手に決めやがってっ……! ちくしょう、何だったんだよっ!! あんたにとって……、オレって……っ」

 自制心が働いたらしく、そこで言葉は切れた。満足のいく返答など得られないと思ったのだろう。そう、その手の質問に、正面切って答えるような性質ではない。

「さぁ……なんだったかな。もう、忘れちまったよ」

 肩を竦め、悪意のある冗談で返せば、赤く腫れた恨めしげな目と目が合う。静かにたちのぼる怒気が、部屋の温度を上げた気がした。

「思い出させてくれねえか、カイジ」

 戯れ言めかして言う。涙で濡れた頬に触れると、肩がすこしだけ動いた。どんなわずかな接触にも震えを走らせる体。返事を待たずに、顔を傾けて唇を塞ぐと、首に腕を回されてかじりつくように抱きつかれた。



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