始まり・1
夕方から降り始めた雨は次第に強くなり、夜には強風を伴って雷まで鳴り始めた。
パチ屋の軒先から空を見上げて舌打ちをし、カイジは走り始める。
(ついてねぇ……。あり金ほとんどスっちまうし、なんでこういう時に限ってこんな天気なんだよ……)
横っ面を張り飛ばすような雨が、情け容赦なく全身を濡らす。
濡れそぼった長い髪を忌々しげに払い、カイジは家路を急いだ。
(ん……?)
自宅アパート近くのゴミ捨て場を通り過ぎようとした時だった。
(なんだ、あれ……)
山ほど積まれた粗大ゴミの影から二本、黒いものが突き出ている。
近づいていくと、それが人間の足だったことがわかり、カイジはギョッとした。
その人物は、ゴミ置き場横の塀に背中を預け、座り込んでいた。
深く項垂れていて顔はわからない。が、暗闇にも冴える真っ白な髪をしていて、その髪から大粒の雫がひっきりなしに滴り落ちている。
死んでいるようにも見えたが、肩は規則的に上下している。
(けっ。酔っぱらいかよ)
こんな状況でも起きないとは、相当深く酔っているのだろう。
起こしてやる義理もない。
カイジは無視して走り出した。
やっと見えたボロアパートに、ほっと安堵の息を吐いた瞬間、
閃光が周囲を昼のように照らし、すぐさま轟音がカイジの耳をつんざいた。
(……っ!!)
思わず立ち止まる。轟音の余韻に鼓膜が震えている。耳が痛い。
相当近い。早く家に入ったほうがいい。
歩を進めようとして、ふと思い出す。
ゴミ捨て場で寝ていた男。
男のすぐ側、壊れたビニール傘が、ゴミ袋を突き破って鈍く光る骨を天に伸ばしていた。
(……落ちる、かもしれない……)
ふり返りそうになり、カイジははっとする。
(それが何なんだよっ!! あのジーさんの自業自得だろっ。オレには関係……)
刹那、また閃光、雷鳴。
今度は、耳を塞がずには居られなかった。
確実に近づいてきている。地鳴りのような振動が大気を揺らす。
早く帰ろう。
早く……
(……っ、畜生っ……!)
カイジは八つ当たりのように派手な水音を立てながら、ゴミ捨て場へ走った。
「おいっ……!! ジーさん、起きろっ!!」
ゴミ捨て場へ戻ったカイジは、さっきの場所から微動だにしていない男の肩を激しく揺さぶった。
だが、男はピクリとも動かない。
(くっ……人の厚意も知らないでっ……!!)
カイジは内心舌打ちをした。
(くそっ……なんで戻ってきちまったんだよ、俺……)
「こんなとこで寝てんなよ……!! 死ぬぞっ。おい、クソジジイ……」
その時、強く揺さぶった弾みで男の体がぐらりと傾ぎ、倒れた。
初めて明らかになった男の顔に、カイジは眼を見張る。
その見事な白髪のせいで勝手に老人だと思い込んでいたが、年の頃はカイジとそう変わらないであろう若者だった。
倒れた衝撃で、男が目を開く。
起き上がり、何度か瞬きを繰り返してから、切れ長の眼でカイジを見た。
「あ、あんた、気がついたのか」
「……ここは」
「あんたずっとそこで寝てたんだよ。早くここから離れた方、が……」
そこでカイジの言葉は途切れた。
男の胸の辺りが、どす黒く染まっている。
「なっ……」
直後、稲光が辺り一面を照らした。
カイジの目に飛び込んできたのは、男の胸を染める鮮烈な赤。
次いで、凄まじい音が空を切り裂く。
だが、カイジの耳には入らなかった。
「お前、それ……」
「……?」
男はカイジの視線を追い、ああ、と声を上げた。
「別に。大したことじゃない」
「大したことじゃない、って……」
見た目から察するに、かなりの量の血が流れているようだった。
それなのに、男は顔色ひとつ変えず、平然としている。
(こいつ……何なんだ!?)
男に対する畏怖と、それを凌駕する興味が湧く。
再び雷鳴が轟き、カイジは我に返った。
とりあえず、屋内に入ったほうがいい。
カイジは腹を決める。
「あんた、歩けるか?」
「……ああ」
目の前に差し出されたカイジの手に、男は瞬く。
「立てよ。オレの家、近くなんだ。天気が落ち着くまで、居ていいから」
夜のような瞳でカイジの顔を見つめてから、男はカイジの手を掴んだ。
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