停滞前線異常なし


 昨日の朝から降り続いている雨は、日付が変わっても止むことがなく、逆に刻一刻と激しさを増している。
 バイト上がり。安物の黒い傘をさし、薄暗い帰路を歩く。
 ぴんとはった生地を、大きな雨粒が叩く。暗い街が雨で煙っている。

 
 このところずっと雨で、太陽が照っているのを、もう5日は見ていない気がする。降り続く雨量に比例するように、最近バイト先でよく怒鳴られるようになった。梅雨入りしてからこっち、眉間の皺が消えない店長は、普段なら気にも留めないような、些末なことを理不尽なまでにネチネチと問い詰めてくる。雨によるイライラの矛先を、自分に向けられているのは明白だった。
 誰とも馴染まず、無愛想なオレは、なにもしなくても、その存在だけで、ある種の人間の神経を逆撫でするらしい。
 わかっている。こういう時に割を食うのはいつだって自分だ。黙って、やり過ごすことにも慣れている。けれど、そうやって耐える時間は、決して快いものではない。胃の辺りがムカついて、吐き気がこみあげてくる。

 気分が腐っていた。店長だけではない。オレだって梅雨は嫌いだ、こういうことが続くから。起こったすべての悪いことは、梅雨のせいなのではないかとさえ思えてくる。

 それに追い討ちをかけるように、後ろから走ってきた車が、派手に水溜まりを跳ね上げた。胸の辺りまで泥水を被り、呆然とするオレの横を、スピードを上げて走り去る車は、白のベンツ。深夜のコンビニアルバイトを続けていては一生、手の届かない車だ。昔、エンブレムを盗んでいたことを思い出した。

 服にスニーカーに、じわじわと染みてくる不快な水の冷たさに、暴れだしたいほどの苛立ちを覚える。

 畜生、こんなところで。
 こんなところでくすぶってるオレじゃないはずなんだ。

 そう思った。だけどすぐに、自嘲の笑みが浮かぶ。
 鼻の奥がツンとした。職場ではぐっと耐えた涙が、今になって溢れ出してくる。視界がぼやけた。

 
 こんなところでくすぶってる自分じゃない。今まで何千何万回、同じことを思って悔し涙を流している。
 しかし、エンブレムを盗んでいた頃と、今の自分、なにひとつ変わっていない。
 この町の上空にずっと留まる前線のように、停滞した日々を送っている。
 焦っていても、ただそれだけ。なにも行動せず、なにも起こらず、同じような毎日をただ繰り返している。
 いつまで経ってもこうやって、同じことで泣いている自分が心底、嫌になった。それよりもっと嫌なのは、こんな風に自己嫌悪に陥っているにも関わらず、明日もまた、なにも変わらない日を過ごすだろう自分が容易に想像できることだった。

 深夜の勤務でよかった。誰にもこんな情けない様を見られないで済む。
 もう今日は誰にも会いたくなかった。
 それなのに。

 アパートの前まで来て、足が止まった。
 よりによって今、一番顔を見られたくない人が、白いスーツの後ろ姿で立っている。なかなか会えない人だから、本当は嬉しいはずなのに、こんな状態では素直に喜べない。
 気分が重かった。無視することはできないので、傘を前へ傾けて、顔を見られないようにしながら近づく。
 うつむいたまま、傘の下から、よく磨かれた革靴の先がこちらへ向くのを見た。

「よぉ」
「……どうも、」

 なにか言わなくては、と思うけど、潤んだ声で泣いてたことを悟られたくないから、それきり黙った。

 赤木さんもなにも言わない。沈黙に雨の音が耳に痛く、オレは居たたまれない気分でひたすらうつむいていた。

 一分ほどそうしていただろうか。
 やがて、赤木さんがため息をついた。雨音に消されないほど大きな、苛立ちを含んだようなため息で、オレの心臓がビクリと跳ねた。

「タイミングが悪かったな。しゃぁねえ。出直すか」

 諦めたようにそう言って、革靴が踵を返す。再びオレに背を向けて、すたすたと歩き出そうとする。
 いつもよりいくぶん低い声に、オレは焦った。まさか、怒らせてしまった!? オレは慌てて顔を上げ、白いスーツの裾を掴んだ。

「待っ……」

 オレの声に、赤木さんが歩みを止め、振り返る。そしてオレと目が合うと、ニヤリと笑った。その顔を見て、してやられた、と思った。演技だったのだ。

 すっかり騙され、上がったオレの顔、涙でぐしゃぐしゃの汚い顔を赤木さんはまじまじと見て、

「その傘、穴でもあいてんじゃねえのか?」

 そう言って、手のひらで涙に濡れた頬を拭ってくれた。
 そのあたたかさに、またどっと涙が滲んでくるのがわかった。
 赤木さんはそれには気付かないそぶりで、軽い声でひとこと、飲みに行かねえか、と言った。
 靄のようなものが、少しだけ晴れたような気がした。いつどんなときに会っても、この人は変わらない。いつだって、赤木さんはこうして、そしらぬ顔をしてオレの心を拭っていく。

 声が涙で詰まって返事ができないので、ただ、ひとつ頷く。すると、分厚い雲の隙間から、一条の光が差し込むように、赤木さんは笑った。






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