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 きれぎれに自分の名を呼ぶ声で、アカギは目を覚ました。
 窓の外はまだ闇に沈んでいる。時を刻む秒針が、静かな部屋に乾いた音を響かせている。

 頭を動かし、声の主の方を見る。
 隣で眠る男――カイジは眉を寄せ、強く歯を食い縛っている。浅く、不規則に乱れる呼吸音。
 どうやら、魘されているらしい。


 またか、とアカギは舌打ちしたくなる。

 カイジが悪夢に魘されることは少なくない。
 そういうときは大抵、誰かの名前を呼んでいる。悲痛な慟哭とともに叫ぶ名前もあれば、憎悪にまみれた地を這うような声で呼ぶ名前もある。

 大方、過去を反芻する夢を見ているのだろう。
 眠りが妨げられることはあったが、アカギはさして気にしていなかった。
 この男が今までどんなものを失ってきたかなんて、心底どうでもよかった。興味があるのはこの男が失ったものではなく、今ここにいるこの男自身だけだ。

 身一つで生きてきたアカギには、夢の中でもなにかを失い続けるなど、理解の埒外だったが、難儀な性格だな、と思うに留まっていた。

 だが、いつからだろうか。
 カイジが呼ぶ名前の中に、自分の名が加わるようになった。

 その呼び方は、他のどんな名前を呼ぶときとも違った。
 驚きと絶望、そしてわずかな諦念が滲む声。
 そして、もともと眠りながら泣くことの多いカイジだが、アカギの名を呼ぶとき、それは特に顕著だった。

 今も、目尻にうっすら滴が光っている。苦しげな呼吸のもとみるみる膨らんで、流れ落ちるのも時間の問題だ。

 どうやら、自分が『いなくなる』夢に魘されているらしい、ということが、共寝の夜を重ねるうちにアカギにはわかってきた。
 カイジの夢の中で自分は、死んだり裏切ったり、二度と顔を見せなかったりしているらしい。

 馬鹿馬鹿しい。
 こんな夜中に起こされて、こんな辛気臭いツラで自分の名を呼ばれるなど、たまったものじゃない。

 だからこういうとき、アカギは問答無用でカイジを起こす。
 傷のある頬に手を伸ばし、思いきりつねってやった。

「……! いっ……てぇ!?」

 間抜けな声とともに、きつく吊った目がぱちりと開かれる。
 カイジは寝込みを襲われた小動物のように素早く辺りを見回し、隣で自分を見詰めるアカギに気が付いた。

「な、なん――だよ」

 起こされたことを咎めるような口調だが、その表情には明らかに安堵が滲み出ていた。大きく見開いた目が瞬きした拍子に、目尻に溜まっていた涙が流れてシーツに染み込む。

「……」

 アカギは口を開きかけたが、結局なにも言わぬままカイジを見る。
 オレの名前を呼んで泣くのはやめろ、とか、まだ起こってもいないことをあれこれ考えすぎるからそんな夢を見るんだ、とか、いろいろ言いたいことはあったが、言ったところで、この男はこうして泣くのをやめられないだろう。

 それならば、何度だってこうして起こしてやる。『今』、自分はここにいる、ということを教えてやる。

 ……それがいつまでできるのかは、わからないけれど。
 と、言ってやったら、この男はまた泣くだろうか?


 アカギがなにも言わないので、カイジは訝しげな顔をしていたが、やがてふたたび眠りについた。
 頬に涙の筋をつけたまま、眠る寝顔は安らかなものになっていた。

 めそめそと名前を呼ばれるのは気にくわないが、自分の存在に安堵して眠るカイジの寝顔は嫌いではない。
 だからまあ、こうして起こされるのも一長一短といったところだろうか。とりあえず、こうして隣で眠ることができる限りは、悪夢から覚ます役割を受け持ってやるつもりだ。

 夜明けはまだ遠い。
 静かに凪いだ寝息を聞きながら、アカギもゆっくりと目を閉じた。





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