邂逅・1 擬獣化(ケモ耳ではなく完全獣化) 猫アカギと犬カイジ シリアス



 古ぼけたビルとビルの隙間の湿った路地に、半ば転がり込むようにしてカイジは飛び込んだ。
 すぐさま耳と鼻の神経をぴんとはりつめさせて、風に混じる追っ手の気配を探る。
 しばらくそうして、完全にまいたことを感じとると、カイジはようやく体の力を抜いた。同時に、肺にどっと酸素が流れ込んできて、目の前が一瞬白く飛んだ。背中を丸め、激しく胸を上下させる。

 路地に面した大通りに溢れる、雑踏と車の音。ヒトの多くいる場所はそれだけ危険も多いが、同族から逃げる場合にはこれほどいい場所はない。鼻がいかれそうなほどの雑多な匂いが、自分の存在を隠してくれる。
 全速力で駆けながらもできる限り息を殺し、呼気の匂いすらさせないようにして走ってきたカイジとは逆に、相手は鼻息荒くカイジを探し回っているに違いない。感覚を研ぎ澄ませていれば、相手に見つかることなくこちらだけが相手の気配を察することも可能だ。

 最近見つけた新しい餌場に向かうため、たまたま通りがかった裏通り。血気盛んな若い雄犬に、縄張りに侵入したとイチャモンをつけられ、襲いかかられた。一対一なら勝てた喧嘩だったが、カイジが前肢に噛みついたところで、劣勢を悟った相手は遠吠えで仲間を呼んだ。
 集まってきたのは五頭、いずれも中型から大型。カイジに勝ち目はなく、地面を蹴って一目散に逃げ出すしかなかった。
 仲間を呼んだことに対して卑怯だのなんだのと言うことは、それこそ負け犬の遠吠えでしかない。野良犬の世界では、どんな手を使ってでも勝ったものが正義なのだ。

 とはいえカイジも、こういう小競り合いには慣れっこだった。チンケな縄張り争いに頭から興味がなく、群れることを嫌うカイジは、その犬らしからぬ性質ゆえいつも標的にされる。左の頬と耳の付け根、そして左前肢の傷も、絶えぬ同族とのいさかいでつけられたものだった。
 異端者、弱者は狩られる。それが、ヒトに飼われない野良犬の、野生の掟。野良犬の世界で縄張りも仲間も持たず、たった一頭で生き抜くためには、強く、強くならなくてはいけない。

 カイジは体に負った傷を検分する。あちこち体毛をむしられていて、噛み傷や引っ掻き傷だらけだが、横っ腹に一撃食らったのを除けば、掠り傷程度のものがほとんどだった。
 体を曲げ、いちばん深い腹の傷を見る。鈍い痛みは残っているが、思ったより血が出ていないのは幸いだった。体力的なことはもとより、血の匂いで居場所を知られてしまうのが最も恐れるべきことなのだ。

 腹の傷を舐めながら、カイジは考える。たとえ今日、うまく逃げ切れたとしても、奴等がこのまま引き下がる訳がない。カイジの方だって、ことあるごとにつっかかってくる奴らとは、いつかカタをつけなければならないと思っていた。
 あの若い雄犬とその仲間は、数にものをいわせて他の犬の縄張りや餌場を荒らし回っているらしい。正義漢を気取るつもりなど更々無いが、連中が気に食わないのは確かだ。

 次に顔をあわせたが最後、どちらかが町を追われるまでやりあうことになるだろう。
 多勢に無勢もいいとこだが、今までこんなことは何度もあった。その度に、知恵と度胸でどうにかしてきたし、今回もそうするつもりだった。頼れるものは、いつだって己の五感のみだ。

 反撃の戦略を練ろうとしたカイジだったが、どうにも消耗しすぎて頭がうまく働かない。
 黒い毛並みのそこここに、草の葉や実が絡まってちくちくと痛痒く、それがまた集中力を奪った。丈の高い草の生い茂った空き地を駆け抜けたときにくっつけてきたものだろう。
 だがそれを取り除く気すら起こらないほど疲弊していた。やむなく、カイジは少し休むことにする。
 追っ手の気配をいち早く察知できるよう、耳を前向きに立てたまま、夜露に湿ったコンクリートの上に体を伏せる。

 暫しの休息。カイジは空を見上げた。不気味なほど大きな月が、闇夜にぽっかり浮かんでいる。
 いつもの白っぽい色ではなく、血で染め上げられたような禍々しい色をしていた。それに恐れをなして逃げ出したかのように、今宵の空には星屑のひとつも見当たらなかった。





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