パイロープ・2


 血みたいな色だと、前に言われたことがあったなと、アカギはふいに昔のことを思い出していた。

 瞳の色のことである。
 アカギの瞳は少し変わっている。一見すると凡庸な黒なのに、間近でよく見ると光の加減で赤く透けることがあるのだ。
 生まれつきこうだったのか、後天的な要因によるものなのかはわからない。鏡で自分の顔をまじまじと見る習性などなかったから、アカギ自身、他人に言われて初めて気付いたのだ。
 
 そんなことを思い出したのは、傍らに寝転そべっているカイジが唐突に「お前の眼って、変わってるな」と言ってきたからである。
 カイジの部屋は寒いが、熱くなった体には調度いい温度で、なおかつ毛布はふたり分の体温で温もっている。ほどよい疲れと親密な空気は眠気を誘う。

「どうした?」
 過去のことを思い出していると、カイジが衣擦れの音をさせながら身を乗り出してきた。ぼんやりしているアカギを、物珍しそうに見ている。
「いや……、」
 アカギは仰向けに寝転んだまま、視線だけをカイジに向ける。
「誰かに言われたことがある。血みたいな色だって」
「血?」
 弛緩した空気の中に似つかわしくない不穏な言葉に、カイジの声がやや大きくなる。
「……血、の色とはまた、違うような気がするけど」
 声を落として眉を寄せるカイジに、アカギは少し笑い、ベッドサイドのタバコを取って一本、口にくわえた。
「オレ自身、他人に言われるまでこの眼のことに気付かなかった。最初に言われたのは……いつだったかな」
 アカギはタバコに火を点け、たちのぼる煙の中に過去を見るように目を細める。しかし吸い始めて幾らもしないうちに、じわじわと眠気が思考を侵食してくる。眠りに流されまいとして、アカギは無意識に饒舌になる。
「まだ中坊だったかもしれない。結構、昔のことだった」
(昔って)
 カイジは返事をするのも忘れて唖然とした。
 この至近距離で、じっくりとアカギの眼を覗きこまないと気付くことの難しい特徴だ。アカギとつきあいのそれほど短くないカイジでさえ、ついさっき、行為の最中に気づいたくらいである。
 それ故、それを指摘した人物とアカギがどういう間柄だったか匂い立つように察せられた。しかもそれが、記憶の薄くなるほど昔のことだとは。経験の多さを自慢するような意図など微塵も感じられない淡白な口調だが、だからこそ余計に生々しかった。

「へぇ〜……どんな人だったんだよ」
 過去、いったい何人がその赤を見出したのか、とか、そういうことにやきもきする細やかさは持ち合わせておらず、純粋な好奇心でカイジは問う。興味津々といったカイジの表情をさして気にも止めず、アカギは
「年上だったな」
 と答えた。
「それ以外は?」
「忘れた」
 あっさりそう答えるアカギに呆れながら、そうか、年上か……とカイジは考える。
 妙齢の女性と、まだ少年のアカギ。どうしても下世話な想像が止められず、カイジはつい押し黙ってしまう。
「……どうしたの、変な顔して」
 急にしんとしたカイジに、アカギは不思議そうな顔をする。
「えっ! べ、べつに……そんな変な顔してたか?」
 カイジは慌てて自分の顔を触り、表情を整えようとする。
 アカギはその様子をぼんやり見ていたが、やがて視線を再び煙に投じて話の続きを始めた。
「やたら……」
 半分眠りに侵されながら、それに逆らうようにアカギはぽつり、ぽつりと喋る。こんなにとりとめもなく喋るアカギは珍しい。
「……嬉しそうだったな。その後も、何人かこの眼のことを言ってきたけど、皆同じような顔をしてた。なんでかわかんねえけど」
 長く喋るのに疲れたアカギは口を閉ざし、まだ長いタバコを揉み消した。
 眠気とたたかうのにも飽いた。もう寝よう、と言いかけてカイジの顔を見る。
(あ、また変な顔)
 生煮えの米でも食わされたような顔をしているカイジの顔に、眠りに向かいかけたアカギの神経が揺り起こされる。
 この顔は、なにか言いたいことがあるときの顔である。しばらく無言で待つと、やがてカイジは奥歯にものの挟まったような言い方で話し始めた。
「それは、お前」
 そこまで言って、カイジは口ごもる。

 親密な間柄だからこそ知ることのできる、この比類なき男の身体的特徴。まるで宝物を発見した子どものような顔をしてアカギの顔を覗きこんだであろう、名前も知らない人々の気持ちが、カイジにはすこしだけわかった気がした。
 きっと誇らしくて嬉しかったんだろう。と同時に、そんなことがわかってしまう自分に少しうんざりして、カイジは結局口をつぐんだ。
「やめた。やっぱ、教えてやらねえ」
 そう言うと、今度はアカギの方が、明らかにむっとした顔をする。瞳の色だけではない。表情に乏しいアカギの、他人ならまず気付かないような些細な変化も、カイジにはだいぶわかるようになってきた。
 やや幼く見えるその表情のなかに、先の話を聞いたせいか、見たこともない中学生のアカギの面影を見たような気持ちになって、カイジはニヤニヤしてしまう。
「なに」
「……別に?」
 半眼で自分を睨むアカギの目を覗きこんで、カイジはもう一度あの色を見ようとしてみる。アカギは眠気を払うようにひとつ、息を吐いた。
「もっと近くに来ないと、見えないんじゃない」
「そうなのか?」
 カイジは素直にアカギに近づく。
「もっとだよ」
 さらにアカギが言い、カイジは更に顔を近づける。互いの息が頬にかかる距離。
「もっと」
 と、ふたたび言ったアカギの声が笑いを含んでいて、カイジはハッとした。

 ちょうどキスするときくらいの至近距離に、可笑しそうに細められた双眸がある。
 からかわれたのだと気付いたカイジが慌てて離れるより一瞬早く、アカギがカイジの頭を引き寄せる。
 戯れのように下唇に噛みつかれ、反射的に目を閉じる間際、カイジは滴るような赤に映る自分の姿を見た。





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