夜の鳥・1 神域没後のはなし カイジ視点


 夕飯の買い物の帰り、差し掛かった歩道橋の、階段の手前で足を止めた。
 正確に言うと、足が固まったように動かなくなった。唐突に思い出したのだ――もういない人のこと。
 赤木さんとの思い出は、いつもなんの前触れもなくふっと胸を訪れる。大抵は、ふたりで行ったことのある場所を通ったりしたときに思い出すのだが、そういう場所を通ると必ず思い出す、というわけではない。いったいどういうタイミングで思い出すのか、自分の心のことなのにいつまでたっても掴めないでいる。吹く風のように胸を去来するその気まぐれさは、まるで生前の赤木さんそのものだ。
 
 すぐ側を走り抜けていった車のクラクションで我にかえる。ランドセルを背負ったふたりの男の子がオレの脇を通り過ぎ、歓声をあげながら競いあうように階段を駆け上がっていった。
 右手に提げたビニール袋をがさがさいわせながら、吐き捨てられたガムの跡がところどころに残る階段を、踏みしめるように一段ずつのぼる。

 この歩道橋を昔、赤木さんと歩いたことがある。吐く息が白くなる季節で、ふたりでしこたま飲んだあと、オレのアパートへの帰り道のことだった。
 その冬は寒かった。凍ってつるつる滑る階段に辟易しているオレを尻目に、赤木さんはすいすい泳ぐように階段をのぼった。のぼりきってしまうと、足許だけ見ながら覚束ない足取りで進むオレを上から見下ろして、笑いながら急かした。赤木さんはいつもこんな調子だった。自分だけぐんぐん先を歩き、たまにふりかえってのろのろ歩くオレを見て、なにが可笑しいのかよく笑うのだった。
 誰にも届かない悪態で口をもごもごさせながら、ようやっと階段をのぼりきったとき、赤木さんはすでに歩道橋の真ん中あたりに立っていた。
 端に寄り、ポケットに両手を突っ込んで、足の下を走る道路を見下ろしている。深夜なので車はまばらで、オレたち以外に人の姿はない。近くの信号機も遠くの信号機も、みな一様に赤い光をチカチカさせていた。
 傍らに立つと、赤木さんはオレを見ないまま言った。
「静かだな」
「ですね」
「さっきの店はやかましかったな」
「……すみません」
 いつもなら赤木さんがその日食べたいものや飲みたい酒のある店に連れていってもらう(というか、半ば強引に連れていかれる)のだが、その日はいつものようにぶらりと訪ねてきて、開口一番『たまにはお前がどっか連れてけよ』と言われたのだった。急にそんなことを言われても、赤木さんに連れていってもらうような上等な店は知らないし、困る、と言ったのだけれど、『お前がいつも行ってる店でいいんだよ』と言われたので、行きつけの居酒屋へ連れていったのだった。量と安さが取り柄のような、狭くてうるさい店だったけど、赤木さんはそんなこと気にならない様子で、大いに笑い、大いに飲んだ。
「せせこましくて騒がしくて、まるでお前みたいな店だったな」
「……どうせそうですよ」
「拗ねるなよ。いい店だったって言ったんだ」
 赤木さんは店の様子を思い出すように目を閉じ、大きく息を吸った。
 オレはといえば、まっすぐで、なんのてらいもなさそうな赤木さんの物言いに、わけもなくどぎまぎしていた。
 そんなオレをよそに赤木さんはすっと目を開くと、道路を覗きこむように歩道橋から大きく身を乗り出した。手すりに腕をつっぱって、上半身をぐっと道路の真上に突きだして、冷たい夜風に身を晒して。
「何してるんですか」
 赤木さんは答えず、オレを見てニヤリと笑う。よっ、という掛け声とともに、更に上体を競りだした。赤木さん、と呼びかけようとした声が喉の奥で凍る。一瞬、唖然としたのち、この酔っぱらい、と心の中で毒づく。
 赤木さんは時々こういう、奇矯な行動にでることがあった。この人に限って、酔って歩道橋から落下して死亡、なんて間抜けな死に方はしないと思っていたが、なにかのはずみでバランスを崩してまっ逆さま、という可能性もないわけではない。なにせ相手は酔っぱらいなのだ。
「やめろよ、あぶねえから」
 たしなめると、
「ちょっと、お前を脅してやろうと思ってな」
 たわけた返事を返す。脅す、という言葉の不穏さとは裏腹に、赤木さんはなぜかずっとテンションが高くて、軽い躁状態にすら見えた。笑いとともに吐き出された白い息が綿のようだった。
 酔っぱらいの戯れ言に渋面を作りながら、オレは内心怖くなった。赤木さんの目が、星ひとつない遠くの夜空を見詰めている。その目を見ていると、本当にこのまま、ぽんと飛びだしてしまうのではないかという、ありえない恐怖にじわじわ心臓を締めつけられて、オレは怒鳴るように名前を呼んだ。
「赤木さん!」
「カイジ、お前、麻雀やれよ」
 オレの声に被せるようにして呟かれた言葉に勢いを削がれ、「はぁ?」と裏返った声が出た。そして、やっぱり酔ってるなこの人、と呆れた。やれよ、もなにも、その頃オレは赤木さんにときどき麻雀を教わっていたのだ。
 赤木さんはいつもの笑みをたたえたままオレを見る。その目には強い光があって、冗談を言ったのではないということがわかった。麻雀やれよ、というのは、赤木さんに時たま教えてもらうようなぬるいやり方じゃなくて、もっとちゃんと本格的にやれ、ってことなのだろうか? 赤木さんの真意を捉えかねて逡巡していると、赤木さんは、ふふん、と笑った。
「いつか、お前と勝負がしたいんだ。今のお前と俺じゃ、勝負にならねえだろうがな」
 だが、とどこか遠い目をして言う。
「だが、お前が何十年何百年続けてれば、変わるかもしれねぇだろ」
 何百年って、そんなに生きられませんよ。
 そう言おうとしたそのとき、びゅう、と強い風が橋を揺らしたので、オレは焦った。
「おい、いい加減戻れってば」
 子どもを叱る母親のような、険しい口調になってしまった。赤木さんはもう一度、ふふん、と笑い、さらに重心を上半身の方に傾けた。
 赤木さんの足が橋の上からふわりと高く浮く。肝がカチコチに凍りそうなほど冷えた。
「お前が麻雀やる、っつったら、戻る」
 風に白い髪を巻き上げられながら、赤木さんはニィと笑った。
「脅しって、もしかしてこれのことですか」
「ああ」
 ガキかよ! つかどうして今、麻雀にそんなにこだわるんだよ?
 疑問が頭に溢れかえったが、目の前の赤木さんを安全な場所へ戻らせるのが最優先事項だったので、オレは早口で捲し立てるように言った。
「わかった。わかりましたから。麻雀でもなんでもやりますから、体起こしてくださいっ……!」
 それを聞いた赤木さんがようやく体をひっこめたので、オレはほっと胸を撫で下ろした。無意識のうちに緊張していた体が、熱い湯に浸かったように弛緩する。そんなオレの気持ちなどつゆ知らず、赤木さんは満足げに笑い、
「よし」
 と言った。
 なにが『よし』だよちっともよくねえよ、あんたの妙な行動のせいで寿命が縮んだよ、と文句のひとつも言ってやりたい気分だったが、赤木さんが
「強くなれよ、カイジ」
 とか、らしくないことを言い出すから、結局言えなかった。
「なんだよ、それ」
 赤木さんはただ穏やかに笑っている。ますますもってらしくない。空気が急に湿っぽくなった気がした。居心地悪い気分になって、橋の下に視線を投げた。車が一台、静寂を裂くように走ってきて、ヘッドライトの黄色い光を遠くに投げ掛けながらオレたちの足の下を通り抜けていく。
 赤木さんはオレの頭をぽん、と叩き、
「生きろよ。強くなれ。勝負しようぜ、待っててやるから」
 と言った。オレの頭を叩くように撫でるのが赤木さんの癖で、ガキみたいにされるのが気に食わないオレは何度か『やめて下さい』と怒ったことがあったが、赤木さんはニヤニヤ笑うだけで、この癖はついぞ直らなかった。それどころか、赤木さんはオレが嫌がっているのを面白がって、わざとやっているフシがあった。
 ため息ついでに「酔っぱらい」と吐き捨てると、赤木さんはいたずら好きな子どものような顔で笑ったのだった。


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