帰路

「カイジさん」

 カイジはその声を聞いた瞬間、思わず回れ右しそうになった。
 数日ぶりのアルバイトの帰り道。
 つかつかと歩み寄ってきた男の白い髪が、街灯の光を反射して鈍く光った。

「アカギ……」

 まるで、その名を口にしたら呪われるとでもいうような沈んだ口調。アカギの唇がゆるく弧を描く。
「そんな顔しないで。別に、取って食おうってわけじゃねえんだから。
 ――少なくとも、今日はね」
 つけ足されたひとことで、カイジは嫌でも思い出す。
 あの、アカギとのおぞましい一夜。
 カイジは自らふっかけた勝負で、嫌というほどアカギに負けてしまい、多額の負債を背負うことになってしまった。
 そして、その負債は、アカギの酔狂な提案で、カイジの体で返していくことになったのだ。

 実はあの直後、カイジは熱を出して倒れた。
 おまけに、あり金ぜんぶアカギに奪われて素寒貧だったから、ロクに薬も買うことすらできない。
 もうすっかり完治したとはいえ、丸二日寝込んだせいであの生々しい記憶はカイジの中でより強烈に残っている。

 だから正直、今はアカギに会いたくなかった。

「だったらお前、こんなとこに何しにきたんだよっ……」
「つれねぇな。たまたま近くを通りがかっただけだよ」
 アカギはうっすらと笑みを浮かべたまま、涼しげに答える。
「それに、あんたあの時顔色悪かったから。もしかしたら体調崩してるんじゃないかって思って、ついでに来てみたまでさ」
 カイジは内心舌打ちした。
 見透かされている。
「別に。あんなことぐらいでぶっ倒れるほど、ヤワじゃねえよ」
 カイジは虚勢を張ったが、自然と声は小さくなる。
 当然嘘だとわかっていたが、アカギは何も言わなかった。



 アパートまでの道を、二人並んでだらだらと歩く。
 切れかかって一定のリズムで明滅をくりかえす街灯。そこに群がる無数の羽虫を見ながら、カイジはふと聞いてみる。
「そういや、お前なんかしてんの。仕事、とか……」
「いや、特には」
「そうだよな。そりゃあ……」
 愚問だった。
 あれだけギャンブルに強く、その上金に頓着しない男が、真面目に働いている訳がない。

 カイジは盛大にため息を吐いた。
 カイジとアカギ。
 歳もほとんど一緒、お互いマトモな職についていない。
 しかし、『必要がないから働かない』アカギと、『働きたくないから働かない』カイジとでは、天と地ほどの差がある。
(こいつの目には、オレなんて単なるゴミムシみてえに映るんだろうな……)
 卑屈な考えが頭をもたげ、情けなさで涙腺が緩む。
(やべ……またかよ、くそっ)
 カイジは俯き、こみ上げる涙をやり過ごそうとした。
 すでに何度も見られているとはいえ、泣き顔を見せるのはやはり男としてのプライドが傷つく。
 カイジはアカギの手前、努めて平静を装った、つもりだった。



 ふいに、頬にアカギの乾いた手のひらが触れて、カイジは足を止める。
 自然と上がった目線の先で、アカギがカイジの瞳をまっすぐに覗き込んでいた。
「……なんで?」
 ぽつりと発せられたアカギの疑問。
 訳がわからず、カイジも疑問で返す。
「……『なんで』って、何が?」
 すると、アカギは左手の親指で、カイジの目の縁を拭った。
 カイジはハッとして、手のひらで顔を拭い、再び俯く。
「お、お前には関係ねぇだろっ……!!」
「そうかもしれねぇが、急に泣かれたら誰だって気になるさ」
 微かに笑うアカギを、牽制の意味を込めて横目でじろりと睨んだあと、カイジはさっさと歩き出した。
 アカギはしばらくカイジの後ろ姿を見ていたが、何も言わずにカイジの少し後ろをついていった。



 結局、それから何の会話もないまま、カイジのアパートの前に着いた。
「それじゃ。おやすみ、カイジさん」
「えっ」
 カイジに背を向けて歩き出そうとしたアカギは、短く上がった声に足を止める。
「? なにか?」
「い、いや」
(家に上がるつもりで、ついてきたんじゃねえのか……)
 カイジはてっきりそう思い込んでいたが、アカギにそのつもりは全くなかったらしい。
 行き先は逆方向のようだし、それじゃあなんのためにここまでついてきたのか。
 アカギの考えていることはさっぱりだったが、とりあえずカイジはほっとする。
「なんでもねえよ。じゃあな」
 カラリと笑うカイジの顔を、アカギはまじまじと見詰めた。
 今日見た中でいちばん明るい顔をしている。とっとと帰れ! と顔に書いてあるようで、アカギは思わず息を漏らして笑った。
「カイジさんって……」
 そこまで言って言葉を切り、笑うアカギにカイジはぽかんとする。
「え、なんだよ」
「いや……」
 低く喉を鳴らして笑いながら、アカギは首を横にふった。
「じゃあ、また」
 そう言って、アカギはカイジに背を向けて歩き出す。

 アカギの背中をいぶかしげな顔で見送るカイジと、小さな笑みを浮かべながら歩くアカギ。
 二人はほぼ同時に、小さく呟いた。
「……変なヤツ」





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