落ちる

「許してくれるよね。オレはガキだから」

 しげるが最近、ひんぱんに使う常套句である。
 この、歳不相応に狡猾な子どもは、カイジの自分に対する子どもあつかいを逆手にとって、カイジにちょっかいを出してくるようになった。
 カイジはやや閉口したが、中坊のすることなどどうせ大したことはない、とたかをくくって黙認していた。

 が、最近。
 どうにも悪戯が過ぎているような気がする。

「ちょ、しげる……っ、お前それは、いくらなんでも」
 カイジの手に顔を伏せたまま、しげるはひっそりと笑う。
「なんで。手、ケガしたんでしょ」
 カイジは言葉に詰まる。
 それはそうだけど。
 ケガといっても、袋アイスのあけくちで、指先をほんの少し切っただけで。
 それなのに、しげるは執拗に、血のにじんだカイジの人差し指を舐め続けている。
 カイジが左手に避難させたソーダアイスと、手付かずのまま放置されているシャーベットが、同じ速さで溶けていく。

 カイジはしげるの様子をうかがう。
 そのやたら熱心なしぐさからは、邪気がみじんも感じられない。
 ひたすらにカイジの傷を労り、治そうと躍起になっているように見える。
 猫が、仲間のケガを舐めて治そうとするようなものか。
 むりやりそう納得すると、舌の当たる感触が急にくすぐったくなり、カイジは身じろいだ。
「あ」
 慌てたようなカイジの声に、しげるが目だけでカイジを見る。
 溶けたアイスが棒を伝い、カイジの左手を汚していた。
 右手はしげるに占領されているため、カイジは仕方なくアイスを口にくわえ、汚れた手を確認する。
 ラムネ色の液体はカイジの腕を流れ、肘まで滴っている。
 どうしようかと考えていると、しげるがおもむろにその手を取った。
 わずかに目許を緩め、今度は左手を舐めはじめる。

(……っ)

 とりあえず解放された右手にアイスを移し、カイジは口を開いた。
「おいっ……!! んなことしなくていいからっ」
 あたふたしているカイジに、しげるはクスリと笑う。
「なんで。汚れたんだから、きれいにしないと」
「でも……っ」
 ちろりと自分の唇を舐め、しげるは続ける。
「オレがしたくてやってるんだからいいじゃない。ガキのすることなんだから許してよ」
 カイジは黙る。
 普段なめくさってガキ扱いしているだけに、その言葉を持ち出されると弱い。
 それに、しげるの落ち着きようを見ていると、カイジは自分だけ慌てているのがアホらしく思えてきた。
 まあ、どうせいつもの気まぐれだろう。気の済むようにさせればいいか。
 カイジは体の力を抜き、しげるの様子を観察する。

 しげるはカイジの指の縫合痕を、丁寧に舌先でなぞっている。
 そういえば昔、この傷をこさえたときの話をしてやったとき、物騒な話なのに興味深そうに聞いていたっけ。
 伏せられた目。
 短い睫毛が、白い頬に淡い影を落としている。
 にわかに部屋が陰った。
 太陽が雲に隠れたのだろう。
 カイジははっとした。
 目の前にいる子どもの瞳が、怪しく閃いたように見えた。
 部屋の明度が落ちたせいだろうか。
「どうしたの、カイジさん」
「いや……、」
 それだけじゃない。
 手を舐めるしげるの舌が、なんというか――。
 右手の時と明らかに違う動きかたをしている。
 甲に舌先を押しつけ、指の関節をなぞり、手のひらを吸う。
 まるで、カイジの中の何かを煽ろうとするような動き。
 ためつすがめつ自分を見るカイジに、しげるは心の中でほくそ笑んだ。

 カイジは、しげるのことをちょっとばかりギャンブルの強い子どもという風にしか見ていない。
 しげるが裏の世界で見せる、悪魔のような一面を知らない。
 それを見れば、カイジの態度など手のひらを返すように豹変することは明白だった。

 だが。
(だが、今はこれでいい)
 カイジの態度に苛立ったこともあった。
 だが、しげるは考え方を変えたのだ。
(ガキだと思って、精々あなどっていればいい)
 油断して、あけすけになったその心と体。
 ぜんぶ喰らい尽くしてやる。
 見くびっていた相手に喰われるその瞬間、果たしてこの人はどんな顔をするのだろう。
 不穏な心の動きを察したかのように、カイジの肩が揺れた。

 もう遅い。

 痕のない親指を口に含み、つけ根をそっと食む。
 ぼとり、と。
 忘れられていたアイスの欠片が、カイジの手から床に落ちた。



[*前へ][次へ#]

2/3ページ

[戻る]