過去拍手
樫山・4
一歩進む毎に、広場から響いて来るざわめきは大きくなっていく。
その陽気な喧噪に誘われる様に、樫山の隣を歩く主の速度が段々と速くなる。
「陛下、足元にお気をつけて」
至る所に提燈を灯し一晩中催される短夜祭とは言え、彼等が歩いている裏道は、忘れられた様に薄闇が取り残されたままだ。
だからこそ東雲国主たる天帝もこうやって、人目に付かずに城内を抜け出す事が出来るのだが‥‥しかしその分、暗がりへ対する注意も必要だった。
「樫山、もう始まってるぞ!」
周囲の気配に絶えず気を配っている樫山の心配りを余所に、天帝は弾むような足取りで樫山の横を擦り抜けて行く。
「陛下、もう少しゆっくりと」
「ほら、樫山早く!!」
――『樫山、早く!』
公務に忙殺される日々の中、久し振りに味わう解放感に年甲斐も無くはしゃいでいるのだろう。
満面の笑みを湛えたまま振り返る天帝の顔に、まだ学舎で学んでいた頃の幼い姿が重なって見えた。
「樫山、早く!」
夕闇に包まれた裏道を、皇子は飛ぶように駆けて行く。
「殿下、お待ちください!」
『短夜祭へ行きたい』と皇子に懇願され、根負けして共に都城を抜け出す羽目となった樫山は、その背中を慌てて追い掛ける。
このままの勢いで広場へ突進され、人混みに紛れてしまっては堪らない。
まだ若輩とは言え、ここ一年で公式の場への出席が増えてきた皇子である。城下の住民の中には、その顔を覚えている者も居るだろう。
せめてその髪を覆う布なり、城下で買い求めた眼鏡なりを身に着けて貰いたいのだが。
「殿下!」
もう少しで広場の灯りの下へと飛び出るというところで、漸く樫山は皇子へと追い付いた。
高等学舎を卒業した暁には、東の剣の候補生になる事を密かに決めている樫山である。同年輩との体力勝負でそう易々と負けてはいられない。
やや強引かと思いながらも腕を掴んで立ち止まらせると、案の定、皇子は不満げな表情で樫山を振り返った。
「なんだよ樫山、もうちょっとで広場なのに」
「その前に殿下、こちらをお召下さい」
少し、動かないで下さいね?
言いながら懐から目立たない色の布を取り出し、樫山は皇子の頭へと素早く巻き付ける。
「か、樫山?」
「しっ、お静かに。広場の人々に気付かれます」
「‥‥」
むむむ、と黙り込んだ皇子に頷き返すと、目深になる様に布を調節し、仕上げとばかりに眼鏡を掛けた。
「‥‥樫山、ちょぉっと視界が狭いんだけど」
「一応、『細工物の職人見習い』風にしたのですが‥‥いかがでしょう?」
「いや、いかがでしょうって聞かれても。それに、この人混みの中で他人の顔なんて見ている余裕、無さそうだけどなあ」
ここまでする必要ってあるのかな?
慣れない眼鏡越しに樫山の目に訴えかける皇子だったが、樫山はいいえと頑なに首を横に振るだけだった。
「誰にも見付からない様に、誰にも迷惑を掛けない様に、精一杯の努力をする――都城を抜け出す前にそうおっしゃいましたよね?殿下」
「‥‥まあ、言ったけれど」
「でしたら、このままで参りましょう」
眼鏡もお似合いですよ?と微笑む樫山に、一瞬抗議の声を上げかけた皇子も、やがて諦めた様に一つ頷いた。
「――了解。祭の為だ、目立たない様に努力するよ」
「いざと言う時は、全力で逃げましょう」
「ああ、今度は追い付かれないからな。‥‥それではいざ、短夜祭へ!」
「はい、殿下」
再び勢い良く駆け出そうとした皇子だったが、樫山の賛同の声を聴くや否や、ぴたりと足を止めてその顔を軽く睨む。
「樫山。今から『殿下』は禁止だぞ?直ぐにばれちまう」
「はい、殿下」
「だから、禁止だって!」
「はい、申し訳ありません、殿‥‥あ」
「ほらまた言った!」
目を見合わせ。
笑い合い。
「行こう!」
「はい!」
そしてどちらからとも無く、広場へ向かって全力で駆け出した。
「――やはりその眼鏡、掛けないといけないのか?」
樫山が懐から取り出した眼鏡を目にし、天帝は無駄だとは分かっていながらも念の為に問い掛ける。
過去何度もお世話になっている眼鏡だったが、どうにも天帝とは性が合わない様だった。
「はい、勿論です」
「視界が狭くなるような気がして、苦手なんだよなあ」
「そうおっしゃらずに。とても良くお似合いですよ?」
初めて都城を抜け出した時と変わらない微笑を浮かべる樫山に、天帝は思わず目を見開き‥‥そして笑い声を上げる。
「あははは、お前は本当に変わらないな、あの頃から」
「陛下、そんな大声で笑われては見付かってしまいます」
「悪い悪い」
それでもまだ治まらないらしく忍び笑いに切り替えた天帝だったが、そうそう、と思い出した様に樫山の顔を見詰めた。
「樫山、祭で『陛下』は禁止だからな」
「はい、陛下」
「だから、禁止だって」
「はい、申し訳ありません、陛下」
「‥‥お前、わざと言ってるな?」
「何の事でしょう?私には判りかねますが」
目を見合わせ。
笑い合い。
「行くぞ」
「はい」
そしてどちらからとも無く、広場へ向かってゆっくりと歩き出した。
◆◇◆◇◆
短夜祭の喧騒へと繰り出す天帝と樫山、でした。
あまり自由のなかった皇子時代の天帝を、こうやって樫山はたまに連れ出していたのであります。
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