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過去拍手
桜木・1


 思わず。
 足を止めた。




 『中庭の夢見草が見頃ですよ』と麻乃から連絡があったのは、五日前。
 盗賊退治の後始末だ何だと立て込んでいた時分であり、気が付くとあっと言う間に日数が経っていた。
 そろそろ行かねば散ってしまう‥‥呑気者である桜木も流石に慌てて仕事を片付け、図書館への道を急いでいるのである。
――良い頃合だな。
 夕陽に照らされた木々を眺めながら、桜木は心の中で呟く。
 吹き抜ける風は日々暖かさを増して行き、纏う上着も随分と薄くなった。
 人々の心も穏やかに弾み出す丁度この頃、夢見草は煙るような薄紅色の花をその身に纏うのである。
 都城内でも幾本かの夢見草が見事に咲き誇っていたが、中でも桜木が一番気に入っているのは図書館の中庭で咲く、一本立の老木だった。
 両手を広げる様にゆったりと枝を伸ばし、控え目に佇む夢見草。
 その姿を見ると、どんな時でも心が落ち着いた。


 あの花が。
 今年も咲いたのだ。




 通い慣れた道を辿り、桜木は図書館へと近付く。
 試みに蒼川も誘ってみたのだが「俺は夜花を見に行くよ」と意味深に笑われた為、一人での訪問である。
――少し、盛りを過ぎてしまったかな。
 多忙の身であったとは言え、折角の麻乃の知らせから数日が過ぎてしまっているのだ。
 既に満開を通り越して、そろそろ散り出しているかもしれない。
――いや、かえってその方が綺麗かもしれないな。
 昨年見た雪の様に舞う薄紅色の花びらを思い出し、桜木は小さく微笑む。
 そのまま中庭へと足を踏み入れ、
「っ、」


 思わず。
 足を止めた。


「‥‥」
 桜木の前に広がる中庭には、端の方に目立たない様に佇む一本の夢見草。
 そしてその傍らに佇む、一人の少年。
 肩には無染の長布を掛け。
 黒い髪をそよ風に揺らし。
――亜紀。
 思わずその名を呼びかけた桜木だったが、しかし思い直した様に口を噤む。
 桜木の存在にはまだ気付いていないらしい亜紀は、咲き誇る花々へと両手を差し伸べていた。
 その頬には、慈愛にも似た微笑が浮んでいる。


 そう。
 まるで、抱き締めるかの様に。


「‥‥」
 一陣の風が巻き起こる。
 散り落ちた花びらが再び舞い上がり、柔らかく亜紀の身体へと降り注ぐ。
 夕陽を含んだ薄紅の花びらは、薄金に煌き。
 それはまるで、亜紀の身体を包み込む様に。
 広げられた亜紀の手を、優しく受け止めるかの様に。


 ああ。
 綺麗だな。


 橙色に照らされた温かみのある、しかしどこか現実離れしたその光景は。
 あたかも一幅の絵画の様に、桜木の心へと焼き付いた。




「亜紀、お茶が入りまし‥‥おや、いらしてたのですね」
 茶器を手に掃出窓から降り立った麻乃は、中庭の入口でぼんやりと足を止めている幼馴染に気付き、声を掛けた。
「‥‥ああ、麻乃」
 呼び掛けられた桜木は、何度か瞳を瞬かせると緩慢に麻乃方を振り返る。
 その仕草は、たった今夢から覚めたかの様で、おやおやと麻乃は微笑を浮かべた。
「どうしました桜木、夢でも見ていた様な顔をして」
「え、桜木様?」
 こちらも麻乃の声に我に返ったらしい、驚いたように声を上げた亜紀は、差し伸べていた両手を下ろすと慌てて振り返る。
 その瞬間、先程までの近寄り難い空気はすっかり取り払われ、常と変わらぬ亜紀が桜木の気配を求めていた。
「亜紀」
 そっと声を掛けたならば嬉しそうに顔を綻ばせ、桜木の方へ顔を向けてくる。
「こんにちは!桜木様!」
 元気よく下げられた黒髪には、ひらりと降り掛かる一枚の花びら。
「‥‥」
――夢見草とは、良く言ったものだな。
 心の中で、桜木はそっと呟く。
 先程の光景は、本当に夢を見ている気分だった。
 ‥‥そして今も、俺は夢の中に居る様だよ?亜紀。
「桜木様?」
「ああ、いや――こんにちは、亜紀。遅れて悪いな、麻乃」
「いえ、丁度良い頃合でしたよ」
 微笑む幼馴染へ軽く手を上げた後、桜木は二人の待つ中庭へとゆっくりと足を踏み入れた。


◆◇◆◇◆

花を愛でる亜紀と、そんな亜紀を愛でる桜木、でありました。
夢見草とは桜の別名だそうで、なんとも可愛らしい名前ですね〜


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あきゅろす。
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