過去拍手 波瀬・1 「おやかたっ」 弾むような声と同時に、ふわりと膝の上に小さな重みが乗った。 機を織る手を一旦止めると、波瀬は視線を下の方へと向ける。 艶やかに柔らかな黒い髪。 明るい光を湛えた黒い瞳。 「‥‥亜紀」 膝にしがみ付く様にしながら自身を見上げてくる少年の愛らしい姿に、思わず波瀬も顔を綻ばせた。 工房『織人』へ糸を卸す仲買人であり、また信頼に足りる親しい友人でもある男の、幼い一人息子である。 窓から差し込む陽光に輝く黒髪を撫でると、くるりと大きな黒い瞳が気持ち良さそうに瞬いた。 「おやおや、亜紀じゃないか」 「いらっしゃい、亜紀」 「お父さんのお供かえ?」 途端、他の織機に屈み込んでいた工房の老織師達から、一斉に歓迎の声が上がる。 父親にくっついて度々工房を訪れる亜紀は、老人達に大層可愛がられているのであった。 亜紀の方も随分と懐いており、好奇心旺盛にあれこれと機織について質問攻めにする日々である。 今日も嬉しそうに波瀬の膝から身体を起こすと、老人達に向かって「こんにちはっ」と頭を下げた。 「秀爺様、和爺様、雅爺様、‥‥あれ、睦爺様は?」 「睦人は、染織仲間の寄合に出掛けとるよ」 「よりあい?」 「皆で集まって、色々と相談するんじゃ」 「まあ、ただおしゃべりしとる時もあるがな」 「今度、亜紀も一緒に行くかのう?」 「いいの?爺様方」 「ああ、亜紀なら皆大歓迎じゃ」 うんうんと頷き合う老人達。 その様子を眺めながら人の気配に波瀬が戸口の方を振り返ると、はたして「邪魔するよ!」と朗らかな声を上げながら、工房内へ一人の男が賑やかに入ってきた。 「よお、波瀬。翁方もお元気そうで」 「お父さん!」 声を上げた亜紀が、波瀬の膝の上から離れると、父親の元へと一目散に駆け寄っていく。 「ほらお父さん、僕、一人でもちゃんと来れたでしょ?」 「偉いぞ、迷子にならなかったんだな」 くしゃりと息子の髪を撫で回すと、その手で今度は小さな背中を軽く叩いた。 「さて、それじゃあお父さんは今から波瀬の親方とお仕事の話をするから。亜紀はちょっと大人しくしていてくれ」 「うん、大人しくしてる」 こくりと素直に頷く息子の頭を、良い子だともう一度撫でると、男は担いできた荷物を肩から降ろしながら波瀬の元へと近寄っていった。 どさりと傍らの机へと乗せると、手近にあった椅子を引き寄せ、波瀬と向かい合わせに座る。 「すまんな、亜紀がどうしても先に一人で行くって聞かなくて。‥‥邪魔したか?」 「いや」 「先日頼まれた糸を持って来たよ」 「ありがとう」 「それから、北雪の鉱石粉で染めた糸が市場に出ていてな、なかなか綺麗な朱色だったから試しに買ってきたが、見るか?」 言うなり、波瀬の返事も待たずにごそごそと荷物の中を探り出す。 やがて、ほんのり薄朱色に染まった糸束を幾つか取り出すと、波瀬の方へと差し出した。「――どうだ、良い色だろう?」 「ああ」 「どうだい、もし使ってみる気があるなら、まとめて仕入れてくるが」 「そうだな‥‥じゃあ、頼もうか」 「分かった」 毎度あり!と愉しげに笑った後、ふと男は表情を改めた。波瀬の方へと身を乗り出すと、声を幾分落とす。 「‥‥睦翁は寄合か」 「染料の値上げについて相談に行っている」 「西風が吊り上げて来たらしいな。あの国でしか取れない染料も少なくないし。どうなる事やら」 「ああ」 「旅商人に聞いたところじゃ、西風は国内の物価も随分上がってきているらしい。煽りを食らっているのは繊維業界だけじゃないようだ」 「‥‥そうか」 「まあ、暫く様子を見てみよう。他の染料で代替をするという手もあるしな」 「ああ」 互いに目を合わせ、頷きあう。 最近何かと騒がしい隣国の様子が気になる所だが、今はまだじっと推移を見守るしかなかった。 「――そうだ、波瀬」 重くなりそうになった空気を振り払おうとしたのか、男は殊更明るい声を上げる。 「この前、亜紀に『波瀬親方とお父さん、どっちの仕事が好きなんだ?』って聞いてみたんだ。そしたら何て言ったと思う?」 「何と?」 「それがさ、亜紀の奴、‥‥ああそうだ、どうせなら本人に直接聞いてみるか」 そう言うが早いが、亜紀!と息子の名を呼ぶ。 老織師達が機を織る手元を興味津々に覗き込んでいた亜紀は、父親の呼ぶ声にぱたぱたと駆け寄ってきた。 「なに?お父さん」 「この前聞いただろ?親方とお父さん、どっちの仕事が好きかって。あれの答えを親方に言‥‥」 「親方の方が好き!」 男が最後まで言い終わる前に、亜紀の声が勢いよく工房内に響く。 真っ直ぐに澄んだ瞳が父親と波瀬を交互に見比べた後、やがてじっと波瀬へと視線を固定した。 「僕、大きくなったら親方の弟子になる!」 「‥‥だ、そうだ」 苦笑混じりで呟くと、男は波瀬に向かって肩を竦めて見せた。 「どうやら亜紀に、俺の仕事を継ぐ気は無いらしい」 「子供の言葉だ」 「ああ、確かに子供の言葉だ。‥‥しかしもし、こいつが大人になっても『親方の弟子になる』って言い張っていたら、その時は波瀬、お前が面倒見てやってくれ」 「‥‥ああ」 こんな幼い子供の言葉を真面目に取ってどうする――そう言おうとした波瀬だったが、苦笑を浮かべている顔の中で瞳だけが妙に真剣で。 冗談とも本気とも取れる男の言葉に些か躊躇いつつも、波瀬は取り合えず頷いておいた。 「ほう、亜紀は将来、親方の弟子になるのかのう」 「良い事じゃ、この爺達と一緒に布を織ろうかのう」 一方、老織師達は、波瀬の戸惑いも男の寂しさも軽々と飛び越え、飄々としたものである。 再び亜紀を手招きすると、戸棚の一隅を指差した。 「そうじゃ亜紀、今日は亜紀にあげたい物があるんじゃ」 「明後日が亜紀の誕生日だと聞いてのう」 「工房『織人』からの、誕生日の贈り物じゃ」 「ほうれ、見てご覧」 言われた亜紀が、不思議そうに首を傾げながらも戸棚へと近付く。 覆われた布をそっと剥がすと、やがて大きな歓声を上げた。 「機織!」 布の下から現れたのは、小さな簡易の卓上機織。 小物しか作る事は出来ないが、亜紀の練習用には丁度良い大きさだろう。 「――これは申し訳ありません、翁方」 男が糸の仲買人から父親へと表情を変えると、慌てて椅子から立ち上がり深々と礼をする。 「どうもありがとうございます。しかし、こんな大事な物を頂いてしまって良いんですか?」 「なんのなんの、礼には及びませぬ」 「壊れて倉庫に放り込んであったのを、親方が修理しただけじゃ」 「いつも怖い顔をしとるが、親方は案外優しい人でのう」 「亜紀に使ってもらった方が、この織機も喜びますわい」 「それでは、ありがたく頂きます。‥‥ほら、亜紀もお礼を言いなさい」 「ありがとうございます!爺様方!親方!」 「‥‥」 ひょこりと下げられた頭を眺め、そして先程の男の真剣な眼差しを思い出し、波瀬は数瞬の間、戸惑う。 ‥‥しかしやがて手を伸ばすと、そっとその黒髪を撫でた。 「‥‥何か織れたら、見せてくれ」 「はいっ!」 ぱっと上げられた亜紀の顔に浮んだ満面の笑顔に、釣られる様にして波瀬も小さく笑った。 ◆◇◆◇◆ 在りし日の工房でのひととき、でありました。 亜紀の父親はおしゃべりです。波瀬が無口であるのをいい事に、延々べらべらとしゃべります(笑) そして爺様達は相変わらず爺様であります。 [*前へ][次へ#] [戻る] |